2009年01月21日

アルバムジャケットの終焉?

ウィズ・ザ・ビートルズ2008年8月17日付の『インディペンデント』紙に、「ロック・アートよ、安らかに眠れ?」と題された記事が載っていた。内容は、もう何度も言われて今さら誰も話題にしなくなった「アルバムアートの縮小化」についてである。ビニール盤からCDに移行したとき、ジャケットサイズは4分の1以下になってしまった。いまiPodの普及によって、ジャケット画像はもはや切手サイズである。これでは、ジャケットのアートワークに力を入れる意味がなくなるだろう。実際、ジャケットに使われる費用の平均は、ビニール盤時代の10分の1である、云々。

この記事を読みながら、ビニール、CD、iPodの三世代を経験した僕は、いろんなことを考えさせられた。1分間45回転で聴くビニールのシングル盤(いわゆるドーナツ盤)は、通常厚紙の包装紙の中に収まり、それを両面印刷の紙と一緒にビニール袋に入れて包装してある。紙の表には、歌手の写真やイメージを刷り、裏面には歌詞が印刷されているのが、いちばん標準的なタイプだろう。オールディーズに凝っていた頃は、よく昔のシングル盤を中古で購入した。洋楽の日本盤には音楽評論家による「解説」が付いていて、ときには訳詞しか載っていない杜撰なものもあった。逆に特典のシールやポスターが折り畳まれて入っている場合もある。

クール・ストラッティン+2これがLP(long play)盤となると、表紙と裏表紙があり、さらに中開きになっていて、歌詞が載っていたり、写真が載っていたりする。見開きで歌詞を見られることから「アルバム」という名前が付いた。もちろん、開けない、厚紙を合わせて綴じ合わせたタイプのLPも数多く存在する。ジャケットのアートワークは、このLPサイズで花開いた。誰もがシンボルとして挙げるのが、ビートルズのアルバムだ。すでに2枚目の『ウィズ・ザ・ビートルズ』でロバート・フリーマンによる陰影豊かなバンドフォトを起用した4人組は、『ラバー・ソウル』でわざと間延びした写真を使い、『サージェント・ペパーズ』や『マジカル・ミステリー・ツアー』でコスプレに挑戦し、『ホワイト・アルバム』では一転して純白のジャケットに通し番号を打った。『アビー・ロード』に至っては、「ポール死亡説」の伝説を生み出すほど、喚起力があった。ビートルズのアルバムは、まさにジャケットによって一つのまとまりを得ている、とさえ言える。

ロックにおける名ジャケットを延々と列挙することは慎むことにする。ただ、ロックよりも前に、ジャズのスリーブ・デザインはすでに洗練されていたことを言い添えておこう。とりわけ、レタリングと色調の選択において、ブルーノート・レーベルのジャケットは、一目見ただけでそれと判る特徴をもっている。クラシック音楽のジャケットはと言えば、基本的には作曲家または指揮者の写真やイラストを載せるだけで、あまり凝った作りはない。もちろん、宗教音楽にはルネサンスの宗教画をジャケットに用いるなど、多少の工夫は見られるが、とりたててオリジナリティを競う場ではない。カルロス・クライバーのように、被写体がかっこよければ、『ベートーヴェン交響曲第4番』のような躍動感あふれる個性的なジャケットも可能だが、たいていは緊張した面持ちの顔写真に終始している。

ベートーヴェン:交響曲第4番さて、CD化によって、アルバムジャケットはアートというよりも漫画っぽくなった、と僕は感じている。ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』を、LPサイズで見るのとCDサイズで見るのでは、感じられる毒の濃度が異なる。コールドプレイがドラクロワの絵をパロディーにしても(10年ほど前にドラゴンアッシュがしたように)、元が大きな作品なだけに、10センチ平方ではさほど強烈なインパクトはない。アートの力が発想や図柄だけでなく、サイズにも依存していることは、このことからも分かるだろう。思うにCD時代になっても、デザイナーはまだどこかでLP時代のインパクトを懐かしんでいるところがあるようだ。よくある「限定盤」は、たいていLP的発想に貫かれた厚紙ジャケットで、小さな文字を無理やりに並べたデザインもよく見かける。いい加減に発想を変えて、小さな画面とプラスチックケースを前提に遊ぶことを考えるべきである。

と思っていたら、iPodが出現した。iPodでアルバム画像を取り込むことには、もはやアイコンとしての意味しかない。写っているものの細部はiPod上では判然としないからだ。さらに言えば、iPodはそもそもアルバムという概念をほとんど成立させないオーディオ機器である。シャッフルやプレイリストによって、曲は元のアルバムから切り離され、別の文脈に載せられる。そのときアルバムは、単なる音情報の集合体でしかなくなる。ビニール盤ならば、リアルタイムで、1曲につき何センチの幅という風に、音楽の消費を時間的・空間的に把握できる。10分近い曲は、盤面を見るだけで判る。CDからは、そのような空間性が奪われ、ダウンロード可能なiPodからは時間性も失われた。実際、iPodでは収録曲の総時間よりも何MBなのかが問題なのである。それはもはや「作品」としてのまとまりに無関心な媒体であると言えよう。

Nevermindこう書いてくると、「作品」から「テクスト」へという、構造主義者が好んで語ったテーゼを思い出してしまう。確かにiPodは徹底したテクスト主義を強いる。音に付随してくる画像や厚紙の手触りや演奏者からのメッセージなどの外部情報−文学理論の用語で言えば「パラテクスト」−を無視して、ただ音だけを聴く。ひょっとしたら、そこには音との純粋な交わりのチャンスがあるのかもしれない。ちょうど作曲家も歌い手も知らない曲をラジオで発見できた時代のように。

ただし、ラジオと違って、iPodには使用者があらかじめ選んだ曲しか入っていない。音との交わりには、常に情報による選択が先行している。また、iPodの音質が悪いことはよく指摘されるところだが、そもそもiPodは基本的に屋外で聴くために作られており、最高の音質など望まないところから出発しているので、この批判にそれほど意味があるとは思えない。むしろ、そうした聴き方が個々の「テクスト=曲」の意味合いを薄めてしまうことが問題なのである。音楽における大量消費とは、単に音源の情報量の大きさを意味するのではない。いつでもどこでも聴ける状態を作り出すことで、「わざわざ」音楽を聴く時間を生活から奪っていることを意味している。

かつてビニール盤を聴くということが、特定の時間に特定の場所で特定の音に耳を傾けることだったとすれば、iPodとは任意の時間に不特定の場所(移動中も含めて)で音を聴く経験にほかならない。それが良いか悪いかということではなく、そうなっているのだということを認めざるを得ない。駅に着いたら、会社に着いたら、アルバムは途中で終わる。あるいは曲に飽きたら、すぐに写真や動画やゲームに切り替えられる。それを残念とも思わずに、当然と思うような感性こそが、大量消費を支えているのである。

そのような断片的な音の連なりに、もはやジャケットがまとまりとしての意味を付与しないことは、誰にでも分かるだろう。アルバムジャケットの終焉、それは必然的な状況で音を聴くことの終焉なのかもしれない。だが、嘆くことはない。そもそもビニール盤にしたって、CDにしたって、所詮は複製品なのだ。ある時ある場所である音を聞くことの必然性は、本質的にはすでに失われているのである。iPodはただ、そのことをあまりにも剥き出しのかたちで、そして高速で提示しているにすぎない。




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posted by cyberbloom at 16:44 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | WEB+MOBILE+PC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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