2008年12月27日

「西洋音楽史‐クラシックの黄昏」 (1)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)中公新書の古色蒼然とした表紙に、「西洋音楽史」というタイトルがつけられていると、これだけでも読む気が失せるという人もいるかもしれないが、副題の「クラシックの黄昏」に注目しよう。

これまでの「西洋音楽史」と銘打った本の多くは例外なく、各時代の専門家による分担執筆だった。これらは専門家に対して正しい専門的な知識を万遍なく提供するだろう。しかし、様々な関心やつながりからクラシックについて知りたいと思っている普通の人、例えば、「のだめカンタービレ」を読んでクラシックに興味を持った人が、それを理解できるだろうか。理解できる、できない以前の問題として、そういう「使えない」音楽史に意味があるのだろうか。ある種の正しさはあるかもしれないが、ナンセンスな専門知識ではないのか。そういう問いが著者をしてこの本を書かせたようだ。

「事実に意味を与えるのは、結局のところ、<私>の主観以外ではありえず」、「歴史を語ることは常に<私>との対話なのである」と著者は言う。つまり、絶対的なクラシックのあり方、正しいクラシックの聴き方などありえない。聴く人それぞれの関心があり、それぞれのクラシックがあるということだ。この本の形式は「私はこういうふうに考えました。あなたはどうですか」という問いかけである。もちろん著者のような研究者が書くのと、素人が書くのとでは情報量や正確さに差があるだろう。しかし、それは「正しい西洋音楽史」を読者に注入しようという態度ではなく、「私が提示した情報や考え方をもとに、あなたなりにクラシックを楽しみ、考えてください」と読者にボールが投げられている。そして読者はそのボールをどこかに投げ返すことが期待されているのだ。

シューマン:交響曲第4番 バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年デジタル録音)

これまでの「西洋音楽史」は、クラシック以外の音楽ジャンルに言及することはなかった。なぜなら、他の「低俗な音楽」を排除し、それと区別することで権威のある高尚な音楽として自らを位置づけていたからだ。それゆえに、クラシックが現在どのような形で聴かれているのか、他のジャンルとはどのような関係にあるのか、というクラシックの置かれている社会的な、同時代的な条件が全く無視されていたのである。この本が興味深いのは、クラッシク以外の音楽に触れていること、そしてクラシックの現在に対するシビアな認識と、いかにクラシックが生き残るかという未来について言及されていることである。これまでの西洋音楽史においてクラシックは不朽のものであり、「黄昏」や「危機」とは無縁だったのだ。

今日のクラシックのレパートリーのほとんどは19世紀後半から20世紀初頭にかけて確立されたものだが、20世紀後半に入ると、人々の関心は誰が何を作るか(つまり現代音楽への関心)から、誰が何を演奏するかに関心が決定的に移ってしまった。しかし、今では名曲のレパートリーの決定版はほとんど出尽くしており、巨匠の時代も去り、ネタ枯れの気配が濃厚だ。またクラシックの進化形である前衛音楽(=現代音楽)を支持する公衆はもはや存在しない。100年前に作られたシェーンベルクの作品から、戦後の前衛音楽に至るまで演奏会のレパートリーに定着した作品は皆無で、現代音楽は公式文化から一種のサブカルチャーと化している。しかし、著者はそれをことさら嘆かない。それどころか「もし前衛音楽にまだ可能性があるとすれば、それはサブカルチャーに徹することを通してのみ可能かもしれない」とまで言う。これは文学などのハイカルチャー全般にも通じる本書の最も重要な指摘である。

マイ・フェイヴァリット・シングス(+2) ラバー・ソウル

私たちはクラシックと他の音楽の同時代性についてあまり注意を向けないが、確かにそれらは明らかに同じ時代の空気を吸った産物なのだ。例えば、フルトベングラーが没した1954年に、エルヴィス・プレスリーがデビュー。翌、1955年にはグレン・グールドが「ゴルトベルク変奏曲」で鮮烈なレコードデビューを果たし、ジョン・コルトレーンがマイルス・デイヴィス・クインテットに参加する。ジョン・ケージが初来日した1962年にはビートルズがレコードデビューしている。

Kind of Blue Django

クラシック以外では、著者はとりわけモダン・ジャズを評価する。モダン・ジャズは娯楽音楽の域を超え、一種の芸術音楽の路線を歩んだ。前述のマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、そしてMJQにおいて即興は見せかけにすぎず、演奏はその細部まで緻密に計算されている。マイルスのモード・ジャズにはフランス印象派を連想させる旋律が現れるし、コルトレーンのポリリズムはストラヴィンスキー並の複雑さなのだ。それだけではない。モダン・ジャズは、20世紀後半において、「作曲上の様々な実験」と「過去の伝統の継承」と「公衆との接点」との間の媒介に文句なしに成功した唯一のジャンルなのである。公的な支援を受けず、独自の力であれほどの表現に到達し、あれほどの支持を集めたことは、クラシック以上の成果であり、ほとんど奇跡に近い現象とも言える。この事実に先ほどの「サブカルチャーに徹するしかない」という提言が反響するのである。

Glenn Gould ‐ Goldberg Variations
John Coltrane - My Favourite Things
Miles + Coltrane - So What

かつて「作曲上の様々な実験を試みること」、「過去の名作を立派に演奏すること」、「公衆にアピールする曲を書くこと」は決して分離した活動ではなかった。例えば、フランツ・リストは時代の最先端を行く作曲家であり、ベートーベンを演奏する巨匠ピアニストであり、現代のロックスターに比されるような人気アーティストだった。
(続く)


西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)
岡田 暁生
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4 読みやすいしわかりやすい
5 曲を聴きながら読みたい




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posted by cyberbloom at 09:33 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評−文学・芸術・思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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