2008年11月27日

Fare you well, Mr. Saint Laurent!

saintlaurant01.jpg作家ジュディス・サーマンは、イヴ・サンローラン最後のファッションショーを取材したエッセイで、初めてサンローランの服—厚みのあるアルパカウールで仕立てた、セーブルブラウンのコサック風マキシスカート―を買った時の思い出を綴っています。ミニスカート全盛の当時としては一歩先行くデザイン、体型もカバーしてくれるすぐれものの一着を手に入れた時、彼女はイギリス留学中の学生でした。1969年のロンドン、家賃捻出のための家庭教師のアルバイトの帰り、最終セールのサインに吸い寄せられて、サーマンはボンドストリートにオープンした話題のブティック、リヴ・ゴーシュに初めて足を踏み入れます。

「ブティックのカーペットの色はブラッドオレンジであったと記憶している。こじんまりしたモーヴカラーの椅子がいくつか置いてあり、近未来的な照明の下に、映画『欲望』風のサンローラン本人のモノクロームのポートレートが飾られていた。セール商品のラックにはもう数点しかなかったが、野生のネコの毛皮をあしらった、勇ましい騎兵を連想させる素晴らしいスカートが、15ポンドに値下げされて残っていた——ジッパーの一つは「難あり」だった。ポケットには一週間分のアルバイト代15ポンドが入っていた。(中略) そして、私は、サンローランの香水「オピウム」の広告の有名なコピーがうたっていた女達“Celles qui s’ adonnet á Yves Saint Laurent”—イヴ・サンローランに溺れる女達—の一人となったのだ。」(“Swan Song” The New Yorker 2002年3月18日号より)。
 
先月初めに他界したイヴ・サンローラン。各メディアが一斉にその死を報じ、伝説的な人生を紹介しました。急死したクリスチャン・ディオールの後を20才そこそこで継いでフランス・モードを代表するブランドを救い、独立後も、パンツやタキシードといった男の装いや民族衣装、シースルールックのような「ありえない」ものをエレガントな女性の服にしてみせるなど革新的なデザインで世界を席巻。「メンズライク」も「エスニック」も今や当たり前のファッション・キーワードとなりましたが、これも彼の大胆な挑戦と、革新を普遍化させるだけの説得力と魅力に溢れたデザインがあってこそだったのです。ファッション界に君臨した偉大な人物だけあって、逸話と業績が羅列されるだけでも十分興味深いのですが、どの追悼記事もどこか表面的でよそよそしい。既にファッション界から引退し、過去形の扱いであったからでしょうか。しかし、数十年前、サーマンが追想した熱狂の渦の中心に、サンローランは確かにいたのです。
 
saintlaurant02.jpg60年代、そして70年代。世界はサンローランの才気とクリエイティビティに魅了されていました。年に4回発表されるクチュールとプレタポルテのデザインは、新聞や雑誌と言った限られたメディアを通じて世界中の業界人に吸収され、インスピレーションの源、雛形となりました。本物に手が届かない人々の下にも、サンローランのデザインのエッセンスは届けられました。大手百貨店は悪びれる事なく堂々とコピー商品を売り、雑誌に掲載された写真をまねたスーツやドレスが町の洋裁店で仕立てられました。現在のような人気ブランドのバッグを持つこととは違う形で、人々の日々の装いに、ファッションに確実に浸透していったのです。雑誌やインターネットにはおびただしい情報やイメージが溢れ、ハイソもトラッシーもひっくるめて多様な質とデザインの服が日々消費される現代では、もはや実感を伴って理解されないかもしれません。しかし、当時のそんな「不自由」な環境も手伝って、サンローランの作品は、一握りの熱狂的なファンや有閑階級のクローゼットにしまい込まれず、様々なレベルで広く親しまれることになりました。
 
結婚式のための純白のスーツとドレスを誂えたミック・ジャガーとビアンカのような時代を代表するヒップなカップルだけでなく、都会の片隅でやりくりしながら精一杯オシャレを楽しむ普通の女達も、サンローランに全幅の信頼を寄せていました。75年にアメリカで出版された本『チープ・シック』は、流行に流されず限られた予算で自分らしいオシャレを楽しむ女性達をたくさん紹介していますが、彼女達がここぞとこだわったのが、サンローランのブーツだったり数年前に買ったコピー商品だったりするのが何とも興味深い。(ちなみに、この本の「ほんとうにクラシックなもの」の章でサンローラン本人のインタビューも読む事ができます。)彼がデザインするものは、ファッションの都、パリが送り出す「間違いのないもの」だったのです。
 
それほどの注目と期待にほんの若いうちから曝され続けたサンローランの人生が過酷なものでもあったことは想像に難くありません。新しいコレクションの発表前には、お守りがわりのバッグスバニーのおもちゃをいじって、わき上がる不安をなだめていたそうです。良き理解者であった彼の母は、インタビューで「ディオールの後継者となったとき息子の青春は終わった」と語っていますが、世間が付けた「皇太子」というあだ名に相応しい仕事を、振舞いを常に求められた彼が、アルコールやドラッグに走ったのも無理からぬことであったのではないでしょうか。徴兵された時に患った極度の神経衰弱も、もともと大変繊細な質である彼を生涯苦しめました。死は、ある意味、解放であったのかもしれません。
 
サンローランの仕事は、かつての恋人でビジネスパートナーであったピエール・ベルジェと設立した財団のウェブサイトで見る事ができます。今でも十分魅力的な街着から夢のようなドレス、各年代のショーのスナップと見るべきものは多数ありますが、特におすすめしたいのが、優れたファッションのセンスと華やかなパーソナリティで知られたアメリカ社交界の名華、故ナン・ケンプナー(写真、下)所有のドレスの写真です。サンローランとも親しく、また昔からの熱心なファンとして1000点を超えるアイテムを所有していたといわれるケンプナー。服そのものの写真もけっこうですが、もはや若いとはいえない彼女が自慢のドレスで着飾った写真をご覧頂きたい。着る人を輝かせるために人生を捧げてきた天才の仕事と、シックに生きる事を信条とし「装うこと」を心から愛した女性の素直な喜びが呼応しあって、ちょっと感動的ですらあります。たかがファッション、なんとセンチなと鼻白む方もあるかもしれない。しかし、ケンプナーの晴れやかな姿は、「着る事」の快楽をを知り尽くしたデザイナーと顧客の理想的な関係を象徴しているかのようです。


ピエール・ベルジェ・イヴ・サンローラン財団のウェブサイト

□興味がある方は、ベテランファッションジャーナリスト スージー・メンケスへのインタビュー記事をどうぞ。長きに渡りがイヴ・サンローランの人物と仕事を見てきた人ならではの鋭い洞察とコメントが読めます。





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posted by cyberbloom at 19:06 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | ファッション+モード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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