2008年11月11日

「ウェブ社会をどう生きるか」(2)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書 新赤版 1074)梅田望夫氏の「ウェブ進化論」(ちくま新書)が、「とりあえずウェブの世界に飛び込んで、いろんなツールを使いこなしてみよう。そうすれば、試行錯誤の中で人間がウェブと良好な関係を保てるリーズナブルな地点に落ち着きますよ」ということならば、西垣氏はウェブの世界に警戒心を抱きながら外から眺めているという感じだろうか。何かを始めなければ、何も生まれないわけだが、西垣氏のウェブの世界全体を見通した上での警告にも耳を傾ける必要がある。また西垣氏の提唱する「しみこみ型教育」というモデルも非常に興味深い。

西垣氏は従来の「教え込み型教育」を批判し、それに生物情報学をモデルにした「しみ込み型教育」を対置する。「教え込み型教育」とは、言語化された明示的な知識体系が前提となっていて、知識体系を細かい要素に分解し、綿密なカリキュラムにしたがって学習者の頭脳に注入していく教育である。まさに今の学校教育のモデルである。そして、既存の専門知は、「言語化された明示的な知識体系」を縦割り形式で構築し、「教え込み型」教育の前提を作ってきたことは言うまでもない。(既存の専門知を称揚しながら、それと不可分な関係にある教え込み型教育を批判するのは矛盾しているし、この本の啓蒙的なスタイルがすでにエリートによる「正しさの注入」という形式になっていないだろうか)。

一方で、「しみ込み型教育」は、生物が環境とコミュニケートしながら生きているように、もつれあい、波打っている情報の大海の中で、「今この時間に自分が生きる上でもっとも重要なものを拾い出す能力」を身に付けさせる教育である。個人の置かれた条件や文脈に力点が置かれるので、むしろ「しみ込み型学習」と言った方がいいだろう。ここでの教育の役割は個人と環境のあいだを取り持つようなコーディネーター的なものだ。

「しみこみ型学習」は次のように言い換えることもできるだろう。私たちは今の社会を生きていくために、常に新しい知識やテクノロジーを獲得し、同時にその獲得したものによって自分を再帰的に捕らえながら、自分を組み替えていくことが求められる。それは学校のトップダウンの注入型授業(あるいは講義)形式による学びとは全く違う、日常的な学びである。学び方が決まっていない、個人の条件によってもやり方が違ってくる学びなのだ。そういう「学ぶことを学ぶ」プロセスを私たちは日常的に繰り返している。

とりわけ学びとテクノロジーの関係が重要な問題として浮上してくる。テクノロジーはもはや私たちの仕事の能率を高め、生活を便利にするというレベルのものではない。コンピューターに代表される新しいテクノロジーの働きは、文字や画像、音声などの記号を複製し、編集し、流通させることだが、そこでは人間の思考や感情がテクノロジーと不可分に接続されている。それは人間の中に入り込み、人間の根拠となっていた思考や判断と結びつき、人間のあり方をドラスティックに変えてしまっている。私たちはウェブという社会インフラから逃れられないと同時に、それらは私たちの現実感や日常を形作ってさえいるのだ。そしてテクノロジーの革新やそれが組み替える現実の変化のスパンは非常に短く、変化は次々とやってくる。

「本来の知とはどこかに蓄積されて、検索できるものではなく、私たちとの状況との関係によって刻々と生み出されれる。そういう活動の場の設計が必要になる」

西垣氏のこの的確な指摘には激しく同意したい。それを他人事のように言っていないで、「そういう場の設計」を自ら実践すればいいのである。専門家や研究者と呼ばれる人たちの多くは、少し前まではウェブ全面否定派が多かったが、最近は、一歩譲って「検索エンジンやウィキペディアは便利だが、ネット上にはろくな内容のものがない」という言い方に変わってきた。「ネット上にろくなものがない」と言うのならば、不正確で、誤った知識や情報が流通しないように、専門家が情報ベースのようなものネット上に作ればいい。専門知の特権を主張するのではなく、その成果をいかにウェブ上にわかりやすいように、使いやすいように流していく。そういうコーディネーターの役割がこれから専門家や研究者に求められるだろう。そして教育の新しいひとつの方向にもなるだろう。また専門家がウェブ上で自ら手本を示すこともまた「しみこみ型教育」に通じていくだろう。

ランキング・アルゴリズムが秘密にされているグーグルの検索エンジンに対する不信感も根強いようだが、ウィキペディアの創始者、ジミー・ウェールズ氏がオープンソースによる検索エンジンを開発中だというニュースも流れている。もちろんランキング・アルゴリズムも公開するのだという。多少は時間がかかるのだろうが、批判の根拠となっている事実がすぐに更新されてしまうのがウェブの世界だ。

最後に倫理的な態度として言いたいことがある。泡のように生まれては消えるノイズのようなものだとしても、その言葉を押さえつけるべきではない。それがくだらないとは誰も言えないはずだ。「語っていいのは私だけだ、おまえは黙っていろ」という言葉の囲い込み、言葉の独占に加担すべきではない。この関係は、男‐女、年長者‐若者、専門家‐素人など、いろんな関係の中で見出せる(言葉の独占は権益の独占でもあることがわかるだろう)。語ることが許されるのは、権力者や専門家だけではない。ウェブの世界を通して言葉が少しづつ解放されていることを認めるべきだろう。ただでさえ息苦しい日本。この息苦しさは語るべき言葉が奪われ、封じられているからだ。多くの人が自殺しているというが、貧しかったり、仕事がなかったりして死ぬわけではない。人間は言葉を奪われたときに最も絶望するのだ。



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posted by cyberbloom at 22:46 | パリ ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | WEB+MOBILE+PC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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