2008年10月22日

記憶の再配分

Microsoft Office Word 2007仕事先で「最近の学生は漢字も書けない」という声をしばしば聞く。という私も漢字をよく忘れる。歳のせいなのか、それともワープロで文章を書くことに慣れたせいなのか。確かに難しい漢字を知っていることは重要なことだろうが、それを知らないからといって私たちの知力が低下したと言えるのだろうか。

一方で私たちはワープロソフトを使いこなし、それに記憶の代行をさせているとも言えるのだ。私たちは難しい漢字を覚える代わりに、ワープロソフトのいろんな機能に習熟している。ネットを使って辞書も引ける。そうやって、現在のテクノロジー環境に適合した形で自分の記憶力を再配分している。人間の記憶力のキャパが一定だとすれば、それを再配分することは自然なことである。

漢字を知らない、文章が書けないという現状は確かにあるのだろうが、一方でコミュニケーションの形態がドラスティックに変わってしまったことも考えるべきなのだろう。本当に何かが失われてしまったのか、何か代わりのものに再配分されているのか、見極める必要がある。難しい漢字を知っていると得意がるのは、文字文化=印刷文化が支えてきた教養主義にすぎないのかもしれない。私たちは著しく情報化した日常に即した、より現実的で柔軟な適応力を求められている。もしかしたら学生を評価する別の基準があるのかもしれないし、ポスト印刷文化の教養があってしかるべきだろう。

私たちはパソコンを使って記憶を再配分するだけでなく、外在化させて整理できる。これまで手書きのノートや手帳が果たしてきた役割だ。思いついたアイデアを放り込んでおけるソフトなんかもある。個人的に使っているソフトは位階(ツリー)構造をしているが、パソコン内のファイルも基本的にこの構造だ。それがなんとなく記憶のメタファーにもなっている。しかし、脳細胞がネットワーク構造だからか、位階構造にしばしば使いにくさを感じる。思考は常に飛躍するし、一見結びつきそうにないことを結びつけたりする。だからマニュアルなノートも手放せない。

さらには私たちのPCの履歴が補足されている事実がある。これはおせっかいな記憶装置の一種と言えるだろう。主に私たちの消費行動の記憶である。例えばアマゾンを開くと、最近買ったもの、最近チェックしたものの一覧が表示される。私たちに過去の消費行動を常に思い出させるのである。さらには別の商品まで勧めてくる。人間の人格は記憶の積み重ねによって出来ているが、過去の消費行動から勝手に人格を作り上げられ、「あなたはそれを欲しがる人間なんですよ」と言われているようなものだ。普段あまり意識しないが、これは監視の視線であることも忘れてはいけない。

ところで、文字が発明されたころはどうだったのだろう。かつてソクラテスは弟子のパイドロスに、文字の功罪についてたとえ話を語っている。トイトの物語である。トイトは算術と幾何学の神話上の創始者で文法の父と言われる人物だが、トイトの文字礼賛の態度に対し、エジプト王のタモスが批判を展開する。いわく、「文字は忘却をもたらす」と。つまり人間は文字という新しい記憶保存媒体を発明したが、それに頼るあまり、自分の記憶力を錆び付かせてしまったと言いたいわけだ。文字文化の晩年に日本人は漢字が書けなくなったと嘆いているが、文字文化の黎明期には「文字の発明のせいで記憶力が悪くなった」と嘆いていたのだ。

これは自分の子供の発達過程を見ていてもよくわかる。文字を覚える前は、読み聞かせていた絵本の内容を次々と暗記して、そらですらすら言えたのが、ひらがなや漢字を覚え始めると、次第にそれができなくなる。できなくなるというよりは、いつでも文字から呼び出せるようになることで、音声によって記憶する(つまりマル憶えする)必要がなくなるのだ。文字を覚えるこの時期に記憶システムの中で最初の再配分が行われ、効率的に記憶を活用できるようになるのだろう。また、歳とともにこちらの記憶力が衰えていく一方で、子供の物心がついてくる。些細なことだが、最近、子供に記憶を託したり、物忘れを指摘してもらうことも多くなってきた。家族で記憶を共有したり、記憶を受け継いだりするとはこんな感じなのかと実感する今日この頃である。




cyberbloom

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posted by cyberbloom at 14:01 | パリ | Comment(0) | TrackBack(0) | WEB+MOBILE+PC | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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