2022年09月29日

『彼らは生きていた They Shall Not Grow Old 』- カラーで蘇る戦場の若者のリアル

カラー化というものに弱い。モノクロ映像でも十分わかるじゃないか、何のための想像力だ!と思うのではある。しかし、カラーで復元された1920年代のパリの街の映像とか、戦争の足音が聞こえない頃の沖縄の市場の写真をなどを見せられると、向こうとこちらの距離がぐっと縮まったように感じてしまうのだ。なんて単純な。でも仕方がない。



そんな人間にとってうってつけのドキュメンタリー映画を、ピーター・ジャクソン監督が最先端の映像・音響技術を駆使して作り上げた。第一次世界大戦がテーマである。不勉強で映画やドラマ、文学の背景に登場する不吉な影くらいにしかこの戦争のことを捉えきれていなかったこともあり、思い切って映画館に足を運んでみた。

イギリス帝国戦争博物館からの依頼が、この映画の全ての始まりだった。博物館が所蔵する、第一次世界大戦中に撮影されたおびただしい数の未公開映像を活用してほしいージャクソン監督と製作チームは、眠っていた経年劣化の激しい映像を徹底的に処理することにした。

サイレント映画の時代の映像を思い浮かべてほしい。外枠を感じさせる小さいフレームの中で、人や物が実際とはかけ離れたスピードでちゃかちゃかと動く。モーターではなく手回しだった撮影カメラでは、このクオリティが精一杯。味わいはあるものの、そこにリアルを見出すのは今の人間にはとても難しい。この問題を製作チームは解決した。てんでバラバラな撮影速度で撮影されていた映像を現在の標準速度に統一、なめらかで自然な動きになるよう調節したのだ。

カラー化にも細心の注意を払った。場所が特定できる映像は、監督自ら撮影地へ足を運んで写真を取り、土の色などその土地ならではの色彩の再現に努めた。イギリス・ドイツ両軍の軍服の細かな飾りといった細部にも、本物の色に合わせてカラー化されている。

更に、当時の技術ではできなかった「音」を再現した。炸裂する砲弾、腹に応える地雷の爆発音といった戦場の音を現場で体感する音量で加えただけではない。可能な部分では、兵士がなにをしゃべっていたかを再現した。読唇術のプロに読み取ってもらった言葉を声優にアフレコさせた。

結果はお見事の一言につきる。遠い昔の「記録」でしかなかったフィルムが、ヴィヴィッドでリアルな映像として蘇ったのだから。スクリーンに映る100年前の人々と、観ている私たちとの壁がさあっと取り払われた感じだ。あそこに写っている彼らは、そこらへんにいる兄ちゃんたちとなんら変わりはない。今と同じような軽口をたたき、笑っている。

この映像をどう活かすか。監督が選んだのは、ナレーションを使わずあの場所にいた兵士たちに語らせることだった。BBCが所有していた600時間以上ある200人もの元兵士のインタビューからより抜いて編集、復元された映像に兵士たちの生の声を当てた。

インタビューを始めた時期が影響しているのだろうか、証言者の戦争当時の年齢はおしなべて若い。主に20代、中には16歳、17歳といったティーンエイジャーも含まれる。おかげで、観る側はプロの軍人でなく、世間の熱に浮かされるまま志願し、にわか作りの兵隊としてフランスへ送られ、有名な西部戦線の生き残りとなったイギリスの若者たちと同じ目線で、開戦から終戦後までを経験することになる。

戦争とは、毎日が歴史に残る戦いではないー当たり前のことだけれど。 お終いが見通せない長大な溝のような塹壕の中に潜み、無人地帯(No Man’s Land、平たく言えば標的になるので誰も生存できない場所)を挟んで敵のドイツ軍と睨みあう日常が延々と続く。1日の時間割も決まっている。この戦争で初めて投入された新兵器ー毒ガス、戦車、マシンガン等といったものにさらされ、目を見張り右往左往する状況もある。敵のスナイパーに撃たれ不意打ちの死を迎える危険も常にある。しかし、敵が何かを仕掛け緊張が走る状況がなければ、「野郎同士でキャンプに来たような気分」で過ごすこともある。

そんな兵士達の日常を、衣食レベルの細々したことを積み上げる形でこの映画は教えてくれる。素材となった映像の多くは「戦場で兵隊さんは元気にしています」ということを伝えるために撮られた、ニュース映画用の素材だったのだろう。塹壕で、非番の兵舎で、カメラを向けられとびきりの笑顔で応える兵士たちが登場する。ビールの配給に並ぶ長蛇の列、軍服のノミを潰し、ふざけあう姿ーしかしフィルムに残された陽気な兵隊さんたちの「本当のところ」を、元兵士たちは100年後に観る私たちに教えてくれる。水みたいに薄かったビールの味を、ふざけずにはおられなかった複雑な心中を。単なる記録映像はこの言葉によって別の意味やニュアンスを帯び、兵隊たちと観客はいつのまにか近しい間柄になってゆく。

戦局は膠着したまま季節は流れ、塹壕の中の環境はますます劣悪となり、敵の攻撃以外の、この戦場でしかありえない原因で命を落とすものもたくさん出るようになる。まだ車が貴重な中運搬の主な担い手だった「相棒」の馬たちも、使い捨てられどんどん死んでゆく。

そして、塹壕でのルーティーンの日々もついに終わる。効果がないに等しい敵陣への突撃を命ぜられたのだ。あれほどふんだんにあった映像は途絶え(丸腰でカメラを回すカメラマンなぞ100%生き延びられない状況だからだ)、当時の新聞や雑誌を飾った勇ましい突撃のイラストがスクリーンに登場する。元兵士の肉声と、効果音として加えられた大音量の発射音・破裂音が、そこで何が起こったかをまざまざと伝えてくれる。敵・味方の砲弾が入り混じって飛び交い、前方から襲ってくる「鉄の暴風雨」の最中を、銃剣を装着したライフルだけ持ってひたすら敵陣を目指したこと、被弾した瞬間の感触、前後左右の仲間たちがバタバタと倒れる中、自分にあったはずの「人間らしさ」がはげ落ちて行くこと。まだろくに思い出もない身では、死の前に見るという人生の走馬灯なんて流れるわけがないー言葉のあまりの生々しさに、ただ愕然とする。そして、スクリーンをにぎにぎしく飾る勇敢な兵隊さんの姿とのあまりの落差にクラクラする。なぜ彼らはこんな目にあわされなければならなかったのか?

何とか死をかわしてドイツ軍の塹壕にたどり着いた兵士たちが、敵相手にどんな行動に出たかはご想像にお任せする。しかしそんな中にも、 自分たちがよく知っている人達と敵兵が変わらないことを見出す兵隊もいる。やり過ぎたと我に返って、自分が襲った瀕死の敵兵に水を含ませる。ありがとう、という一言を残してほんの坊やの兵は息を引き取るのだ。

4年の月日が流れ戦場にいるだれもがうんざりしていた頃、戦争が終わる。戦争しかしてこなかった若者を故郷で待っていたのは、戦争のことなど忘れてしまいたい世間の無関心だった。戦場での体験に耳を貸すものはなく、職歴のない厄介者扱いされ生活に追われた元兵士たちは戦場での記憶を封印することになる。

取り放題が許されない中戦場を撮影したカメラマン達が、レンズを向けフィルムに残した光景(お蔵入り覚悟で撮られた凄惨なショットもあった)。老人となってからようやく戦場での経験とあの日の感情を吐露することができた元兵士たちの、録音テープに記録された言葉。仕舞いこまれていた、あの戦争を生きた人々の思いが100年経って解き放たれ、なにが起こったかを知りたい人々のもとに届いたのだ。第一次世界大戦という括りだけではなく、戦争というものがどんなものであるかをも感覚レベルで伝える形で。封を切るだけでなく今の観客がより明確に受け止められるよう腐心した、ピーター・ジャクソンとその最新鋭の技術を操るスタッフたちの地道な仕事に心から敬意を評したい。

また、戦場に行くのは若者であるという当たり前の事実を突きつけられもした。生きのびて証言した元兵士たちにとって、この忌まわしい数年間は青春の日々でもあったのだ。懐かしくもおぞましい思い出として青春時代を抱えてゆかなければいけなかった者たちもいれば、その青春すら断ち切られ、原題の示す通り年を取ることを許されなかった者たちもいる。戦争は若者をこんな目に合わせるのだということを、若くない側の一人として、あらためて胸に刻んだ。

トレイラーはこちらで。
https://youtu.be/IrabKK9Bhds

体調が良くない時に観るのはお勧めできません。しかし、見れるとき見ときヤ!な一本です。

全編カラーではなく途中でモノクロからカラーに切り替わるのですが、その切り替わりの効果の嫌ったらしさも必見です。映画『オズの魔法使い』の真逆を狙ったようですね。



GOYYAKOD
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2022年09月24日

『ポムポムプリンの「パンセ」』

古典は読みにくい。言葉遣いが古いし、いいことを言っていても、言い方が難しかったりする。でも、古典とはいろんな読み方に耐える書物である、ともよく言われる。確かに、本当に大事なことは、原稿に番号を振って読んでいる学者だけに理解できるものではないはずだ。古典は誰にでも開かられている。だから、2016年度のサンリオ・キャラクター人気投票で第1位に輝いたポムポムプリンが、フランスの思想家パスカルの名作『パンセ』を読んでみても、かまわない。なので、読んでみたら、こうなりました、というのが本書である。



一応解説しておくと、パスカルの基本的な態度は、神がいなければ、人間の生きる意味を保証するものがなくなる、だから、神を信じるべきだ、というもので、その反証として「神なき人間の惨めさ」を書き留めた。『パンセ』には次のような一節がある。

「人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。」

これは前田陽一・由木康によるスタンダードな訳文(中公文庫版)で、ポイントを落として、本書にも転載されている。ここは大事なところで、パスカルの「原文」もできれば読んでね、という編集サイドの謙虚な気持ちが表れている。さて、ポムポムプリンは、パスカルのこの言葉をこう解釈している。

「耐えられないときは逃げたっていい。
大きな悲しみに直面すると、無力感にさいなまれる。乗り越えようとするほど、より悲しみが深くなってしまう。無理に向き合おうとせず、毎日を過ごそう。嫌なことを考え過ぎなくてもいいんだよ。」

な、なんとポジティブな。神様抜きでは癒せないものを無視することで幸福になろうとする人間を批判するのではなく、惨めになる前に逃げようね、と優しく諭してくれるとは。さすがサンリオきっての癒し系だ。

「クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていたことだろう。」(パスカル)
→「小さな行動が、未来を変える。」(ポムポムプリン)

「われわれが他人から愛される値うちがあると思うのは誤りであり、それを望むのは不正である。」(パスカル)
→「愛されたいから、愛してみる。」(ポムポムプリン)

ひょっとして意味が反対では? などと批判するのは、野暮というものだろう。どんな言葉もポジティブにしか理解できない人もいるのだ。サンリオのキャラクターたちは、ほかにもこんなものを読んでいる。

 『ハローキティのニーチェ』
 『キキ&ララの「幸福論」』
 『マイメロディの「論語」』
 『けろけろけろっぴの「徒然草」』
 『みんなのたあ坊の「菜根譚」』
 『シナモロールの「エチカ」』
 『バッドばつ丸の「君主論」』

異なる文脈に置かれると、言葉の意味はいくらでも変化する、とかつてボルヘスも書いたことがあったが、彼の短篇「『ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」は、結局は作者名を入れ替えただけの知的遊戯にすぎない。このサンリオ古典シリーズは、もっと過激だ。実際、キティちゃんがニーチェの超人思想について考えている図を想像するだけで、かつてないアートを感じてしまう。

あらゆる古典が、ひたすらポジティブ・メッセージの書へと変換されてしまうのでは、という危惧もなくはない。それは、現代日本に底流する問題である。今後は、思想誌としての『いちご新聞』から目が離せない。


posted by bird dog


posted by cyberbloom at 00:00 | パリ ☁ | Comment(0) | 書評−文学・芸術・思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする