2020年09月20日

『わたしが「軽さ」を取り戻すまでー“シャルリ・エブド”を生き残って』 カトリーヌ・ムリス

最近読んだマンガに、こんなエピソードがあった。登場人物の一人が、しんどい状況にある二人に彼なりのメッセージとして写真集や画集を送るが、どちらからも見事に拒絶されてしまう。同じやらかしの経験者として、落ち込む「彼」と一緒に反省することしきりだったが、こんな疑問もわいてくるのだった。写真や絵の力に一方的に頼った彼のやり方はたしかにマズかった。しかし、写真や絵画は、芸術は、本質的に人を癒す力があるのだろうか?



そんな大きな問いを自らの人生でもって検証せざるを得なかった人がいる。この本の著者、カトリーヌ・ムリス だ。2015年1月7日に起こったシャルリ・エブド襲撃事件の生き残りの一人である。

男と別れて気が塞いでつい会議に遅刻したおかげで、彼女は辛くも難を逃れた。しかし、シャルリ・エブドのオフィスがある建物の前に到着したとき、まだ事件は終わっていなかった。路上で、逃げ込んだ近所のオフィスの中で、彼女は仲間たちが手にかけられる音をずっと聞かなければならなかった。Tak Tak!という発射音はその後ずっと彼女につきまとう。

それが終わった後、ムリス は生き残りとしての苦しみを生きることになる。事件直後はまともな会話が成立しないほどのダメージを受けていたにもかかわらず、シャルリ・エブドのスタッフとしてテロに対しリアクションをすることが求められたのだ。テロ後に発行された「生存者の号」の編集にも携わった。本書で公開された当時の創作メモは、ムリスの内面のあからさまな記録だ。一言でいうならばカオス。怒り、恨み、ヒステリックな叫び。全く笑えない、事件がらみのユーモア( 後の報道で殺人者もまたいろいろを抱えた人間であったことを知ってしまった「遠くの部外者」には正直ついていけなかった)。きれいごと抜きの赤むくれの彼女がここにいる。

役目を果たしたムリス は抜け殻も同然となる。何も感じない。記憶は飛び、同僚がかけてくれた新年を祝う言葉も思い出せない。大好きなプルーストのゆかりの地を訪れても何の感興も湧かない。このときの心境をムリスは綴っている。「自分が何者なのかわからない。 無の中に浮いている/精神科医にも言われたわ。身近な人たちや友人がどれほどの善意を持ってもわたしたちに起きたことを理解できないって/とても孤独を感じるだろうと」

そんなムリスを世界は放っておいてはくれない。警察は24時間警護という刑務所同然の暮らしを彼女に強いる。“Je suis Charlie”のスローガンに代表される、シャルリ・エブド襲撃犯が抱えていた憎しみとは真逆の、世間の強い感情の波をまともに被る。生き残りというそれだけの理由で、拍手の嵐の真ん中に立たされる。マスコミは彼女を追い回し、「虐殺」現場は観光名所になってしまった。もはや元の暮らしは望めない。男だって言い寄ってこない(SPに取り押さえられるのがオチ)。そして、11月19日の同時多発テロが彼女にダメを押す。

芸術の力にすがってみようとムリスが思いついたのは、そんな時だった。スタンダールがイタリアで美術の力に圧倒され気を失ったと書き記している。スタンダールのように美に溺れ、美の力で「1月7日」を相殺することはできないか。ムリスはローマへ旅立ち、スタンダールがしたように美の傑作をひたすら見る日々を送る。

スタンダールが力説していたような劇的な効果は現れただろうか?テロはなおもしつこくムリスにつきまとい、美に没入することを許してはくれない。しかし少しずつ、彼女は自分らしい物の見方を取り戻してゆく。ミケランジェロの手がけた教会の天井画を眺めているとき、魅力たっぷりな神のお尻を面白がっていることに気がついたり。そしてフランスに戻り特別なはからいで閉館後のルーブル美術館を生き残り仲間と見学した時には、カラヴァッジョの一枚の絵と目が合ってしまう。イタリアで見たドラマチックな生と死、光と闇に彩られた作品群とは違う、名画ではあるがぐっと世俗的な日常のおかしみに溢れた一枚。そんな絵と心のチューニングが合った彼女は、1月7日前の心の自由をほんの少しではあるが取り戻しているのかもしれない。

芸術とムリスとの関わりで美術とのそれより印象的だったのが、ボードレールの詩の一節を巡るものだ。襲撃で亡くなったシャルリ・エブドの校正担当が、新年の挨拶とともに彼女のために暗唱してくれた言葉でもある。事件のショックで消えてしまったその言葉を、しばらく経って彼女は思い出す。新年に相応しい、高揚感に満ちた華麗な言葉は、通奏低音のように彼女の中に響き続ける。彼女の受けた傷を塞ぎ、直接痛みを和らげることはない。しかしそれは遠くにある光のように、どん底にいる彼女をそっと支えていたように思う。

ムリスの「実験」から言えることは、芸術の「効力」とはそれに触れる人次第ということだろうか。見る人の側の用意ができていなければ、それがどんな傑作であっても無力なのかもしれない。 しかしそれが誰かのために特別に選び思いを込めて届けられたものであるならば、また違ってくるのかもしれない。ボードレールの詩がムリスに捧げられたとっておきの言葉でもあったように。

最後にこの本についての注意書きを少し。セリフの吹き出しはたくさんあるけれども、いわゆるマンガとは手触りが違う。イメージを喚起するたくさんの絵が添えられた言葉の本、というほうが近いだろうか。また、タフな一冊でもある。表紙の淡いタッチのイラストにごまかされてはいけない。わかりやすい立ち直りの物語を期待したら返り討ちにあう。作者はまだ「途上」の人であり、この本をよむことは作者の傷に触れることでもある。ある意味「覚悟の書」なのだ。絵の一枚一枚を描きあげることがどれほど大変だったろうか。2016年の時点でここまで自分をさらけ出したその勇気に敬意を表したい。


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2020年09月16日

『ニューヨークの巴里夫』セドリック・クラピッシュ〜複雑な関係をタフに生きる

フランス人とアメリカ人の恋愛観の違いについて、フランス人は恋人と別れたあとも友人として関係を継続するけれど、アメリカ人は別れたらそれで終わりになる、とよく言われる。アメリカ人の男女関係は基本的に They lived happily ever after (ふたりは末永く幸せに暮らしましたとさ)で、もし別れてしまったらそこでリセットされる。彼らにとっては形が大事なのだ。アメリカ人男性とフランス人女性のカップルの物語、『パリ 恋人たちの二日間』(ジュリー・デルピー監督)でも、この違いがコミカルに描かれていた。ちなみに、「ふたりは末永く幸せに暮らしましたとさ」はフランス語で Ils vécurent heureux pour toujours. (vécurent は vivre の単純過去形)



『スパニッシュ・アパートメント』(青春3部作の1作目)で別れたフランス人のカップルが、『ロシアン・ドールズ』(2作目)では良き相談相手になり、『ニューヨークの巴里夫』(3作目)では最後にはお互いの子供を連れて合流という話になる。今のフランスでは、そうやってできた「複合家族 famille recomposée 」が当たり前になってきている。あるフランスの社会学者が「家族を作るのは結婚ではなく、子供になりつつある」と言っているが、子供ができると、子供を中心に生活を組み立てざるを得ない。そして子供の方も両親のあいだを行き来して生活することになる。2006年の時点で、フランスでは120万人の子供が複合家族のもとで暮らしているようだ。

フランスでは、離婚したあとも子供のために、苦々しい思いをしながら、バカンスなどで別れた相手や相手の新しい家族と一緒に過ごさなければならない。複合家族や変形家族を営むためには、親の方も精神的にタフでなくてはならない。再婚相手の子供を虐待するという事件が日本でよく起きているが、相手の元夫や元カレと比較されることに、ヘタレ男は耐えられないのだ。『ニューヨークの巴里夫』でグザヴィエは子供の問題を話し合うために、ウェンディの新しいアメリカ人の夫に会いに行くが、英語が下手なゆえに子供扱いされる。フランス人もこういう目に合うのかと思うと可笑しい。「お金持ちだから彼と結婚した訳じゃないのよ」とウェンディは言っているが、彼女の再婚相手はさらにお金持ちなのだ!

この屈辱感は想像に難くないが、それでもグザヴィエはへこたれない。ニューヨークで子供と過ごす時間を作るために偽装結婚まで企てる。今の時代において本当の幸せをつかむ鍵は、男のプライドを捨てることあるのだろう。それは伝統的な家族像が有効だった過去の遺物にすぎないのだから。今はなりふりかまわずに、中身を取りにいく時代だ。グザヴィエは子供を公園で遊ばせているうちに、同じような境遇の父親と親しくなる。俺たちは元妻と子供と一緒の時間を奪い合う戦士だ!と彼は言っている。一方で、そういう複雑な関係を生きることで人に共感でき、本当の寛容さが身につく。

もちろん複合家族なんて回避できた方が良いに決まっている。しかしそうなってしまった以上、見栄や世間体よりも、「こうなっちゃったんだからしょうがない」と開き直り、その局面において合理性を追求するしかない。たとえその選択が正しいかどうかわからなかったとしても。そういう複雑な関係に適応できないのは大概男の方で、それを打開するコミュニケーション力や人間力も低かったりする。日本では中高年の男性の孤独死が問題になっている。まさに人間関係を作る力がないからだ。会社をリストラされたり、病気になったりして、お金を稼げなくなったとたんに妻にも子供にも見捨てられる。会社人間で家族を顧みず、家族のあいだの愛情や信頼を育んでこなかったせいだ。生活はすべて妻に依存し、ひとりで生活する力がない。それゆえひとりで寂しく死ぬことになる。日本では結婚することも難しくなっているが、愛と信頼のある関係を維持することはさらに難しい。

フランスはこのような傾向を制度的にもフォローしている。社会学者の宮台真司氏がよく言っているが、ヨーロッパ全体を見ても、80年代くらいから、家族でなくても、「家族のようなもの」であれば支援しようという政策を始めている。具体的には、婚外子、シングルマザー、同性婚の支援などだ。伝統的な家族の形を維持できないとすれば、見かけは違っても、同じような機能を果たすものなら、それを肯定しよう、さらにはそのような集団を積極的にデザインしようという考え方だ。もはやいろんな家族の形を認めざるをえず、個人は与えられた条件の中でそれなりの幸せを実現するしかない。『ニューヨークの巴里夫』の原題 Casse-tête chinois は「はめ絵遊び」のことだ。最初から理想のモデルがあるのではなく、与えられた条件の中でそれぞれが最適な「幸福のピース」を見つけていくことが肝要なのだろう。

映画の中にはレズビアンのカップルも出てくる。イザベルとジューだ。そしてグザヴィエは彼女たちが子供を作るために精子を提供する。『ニューヨークの巴里夫』には、こういう時代の先端を行く家族形態も盛り込まれている。アメリカでは若者が金銭的な動機でドナーになることもあるが、そういうドナーでも自分の精子から生まれる子供に興味を持ち、子供の将来を心配する。子供もまた自分に父親がいないことに関心を持ち、生物学上の父について知りたがるのだという。映画の中でもグザヴィエの息子が、グザヴィエが精子を提供して生まれたイザベルの娘を「妹」として認識し、ささやかな愛情が芽生えている。

現代社会では、個人は人生を自分の判断によって主体的に選び取り、その結果を自分で引き受けなければならない。私たちは判断をめぐって右往左往し、これまでありあえなかった後悔を生むことにもなるだろう。これまで職業が人生の最も重要な選択であり、自己実現とも結びついていた。現在はそれだけにとどまらない、様々な選択の機会に直面することになる。「結婚する・しない」「子供を産む・産まない」(不妊治療を受ける・受けない、あるいは養子をとる)から、自身のセクシャリティー(LGBT)、自身の死期(安楽死、ガン治療、葬儀)にまでそれは広がっている。もし子供がいるならば、どのような教育を受けさせるかは頭の痛い問題だ(実際に自分も経験したが、日本だと「子供に中学受験させる・させない」が大きな分岐点になる)。そういえばウェンディとグザヴィエも子供の学校のことで激しく口論していた。リベラルなグザヴィエにとって制服のある学校なんて問題外なのだ。そして現代社会は個人の人生の選択のための法や制度の整備を粛々と推し進めていく。伝統や偏見のプレッシャーは軽減されるかもしれないが、私たちは伝統や社会的な通念というレールがない状態で、それらを逐一選択していかなければならない。

cyberbloom


posted by cyberbloom at 22:40 | パリ | Comment(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2020年09月01日

『マチルド 翼を広げ』Demain et Tous Les Autres Jours

飛行機の中、というのも思いがけない映画との出会いがある場所だ。あてがいぶちのラインナップから選び小さな画面で見た作品が当たり!だったりすることもある。期待していた本命の新作映画が見当たらず、肩透かしな気分のまま機内でピックアップした本作について書いてみたい。



9歳の女の子、マチルドはママンと2人パリのアパルトマンに住んでいる。別居しているパパとはときどきスカイプでおしゃべりする。周りの人からは変わっている子と言われ先生からも心配されるけれど、独りでいることが嫌いじゃない。勉強だってちゃんとする。カラフルなユニークちゃん、というより、自分がちゃんとあって、自分の感性と美意識を大事にしている女の子なだけだ(きれいに飾ったマチルドの部屋を一目見ればわかる)。かしこくて一生懸命な、まさにおとぎ話の主人公をリュス・ロドリゲスが好演している(小鼻がちょっと膨らむ風なのがかわいらしい)。

マチルドが素敵な私の部屋を持つ女の子になったのは、感性豊かなママンのおかげだ。ママンはマチルドよりもっとずっと変わっている。例えば、ある日突然ウェディングドレスをデパートで買いもとめ(そうする理由はちゃんとあるのだ)、試着したまま家に帰ってくる。白い裾を雨に濡れた街路で汚しながら。他の子のママンと違って、マチルドの面倒を見るよりマチルドに世話を焼いてもらうこともそれなりにある。だからマチルドは自分で夜ご飯を食べて自分で起きて学校に行くことができる子になった。それでも、ママンの事がマチルドはとにかく大好きだ。

唐突にママンがプレゼントしてくれた小さいフクロウがマチルドとだけおしゃべりできることがわかり(かわいい外見に似合わず陽気なおっさんキャラだったりする)、マチルドの感じ方や考え方をわかってくれる友達になってくれたおかげで、マチルドの世界はぐんと彩りを増してゆく。その一方で、ただでさえ不安定なママンの心の調子はゼツボー的に悪くなってゆく。マチルドが一生懸命準備したことも全く悪気のないママンのお陰でおじゃんになり、マチルド自身も危険な目にあう。ママンとマチルドの静かで豊かな世界は崩れてゆく。

ここまでくると、なぜしゃべるフクロウも登場するおとぎ話仕立てなのかがわかる。そのままを映画にすればこぼれ落ちてしまうものがあるからだ。世間さまから見れば、迷惑ばかりかける母と耐える娘である。リアルを追求しながら「社会の中の2人」を描けば、マチルドの将来とか生活費とかママンの病の理由の詮索とか、いろいろとついてきて大事なことががぼやけてしまう。現実を締め出してこそ初めて見えてくるものもある。

一つはママンの存在感。どうしてマチルドがママンのことを好きなのか。この問いに映画はきちんと答えている。親だから、だけではなく魅力的な人だからだ。他人の目にはトラブルでしかなくても。事実、本作の監督でもあるノエミ・ルヴォヴスキが演じた、静かな微笑を絶やさないママンの心ここにあらずな表情やたたずまいはなんともいえない透明感があって美しい(前作での「元気なカミーユ」が演技だったこともよくわかる)。

そして、ママンが苦悩する人でもあることもしっかりと捉えている。自分を置き去りにしてどんどん飛び去る思考に振り回され、追い詰められてゆく苦しみ。やらかしてしまったことを知った後の絶望感。大事な人たちと思うように接することのできないもどかしさといったものをを常に抱えていることを。ママンのような存在は大抵の場合「主人公を脅かすやっかいな問題」として平面的に描かれがちだが、この映画は違う。これまで見てきた「メンタルを病んだ人の演技」にはないものを感じた 。観察映画『精神』に登場した人たちに見たものー自分の内面で沸き立つものと戦う人の静けさーにより近いものとでも言おうか。

もう一つは、マチルドとママンの関係だ。社会が掲げるあるべき母娘の姿とはかけ離れているかもしれない。しかしマチルドとママンはそうやって一緒に1日1日を積み上げ、次の日を迎えてきた。他人には問題行動とその結果の繰り返しのように見えても、2人にしかわからない世界があるのだ。

マチルドは、ママンの心が絶えずどこかにさまよっておりいつか自分から離れていってしまうのではないかと勘付いている。だから一生懸命ママンによりそう。ママンはママンで自分を求める大事なマチルドの声に応えたいと思っていて、がんばろうとする。でもうまくいかずに、変なことになってしまう。まるで悪い魔法にかけられてしまったみたいに。こんなにもそばにいるのに繋がらない、二人のなんとも言えない微妙でせつない関係が交わし合う視線、触れ合う体からきちんと描かれている。観ている側にはたまらないのだけれども。

そしてママンはある決断を下す。ママンにかけられた「魔法」が解け、ママンとマチルドが再び母と娘として巡り会うことができるのか、何も考えずに互いをしっかり抱きしめることができるのか。それはぜひ映画をご覧になって確かめていただきたい。

話し相手のフクロウ(映画『愛と哀しみの果て』でメリル・ストリープがペットにしていたのと同じ種類だろうか)も脇役としていい味を出していた。 愛嬌なしのデッドパンなタイプの動物ゆえ、好き勝手なおしゃべりもすっとはまる 。父親役のマチュー・アマルリックの静かな存在感も印象に残った。

by GOYAAKOD

posted by cyberbloom at 00:00 | パリ ☁ | Comment(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする