2020年02月22日

是枝裕和監督、『万引き家族』でカンヌ映画祭パルム・ドール受賞

是枝裕和がついにカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した。2004年の『誰も知らない』では柳楽優弥が史上最年少で主演男優賞、2013年の『そして父になる』が審査員賞と来ているので、いつかは受賞してもおかしくないと思っていたが、ついに2018年に栄冠を手にした。

1995年に『幻の光』で長篇映画の監督としてデビューから23年。是枝はついに日本を代表する映画監督の地位に登り詰めたと言っても過言ではない。だが、その道は必ずしも平坦だったわけではない。

是枝が『幻の光』でデビューした際、多くのシネフィルはほとんど黙殺したのではないかと記憶する。その理由は、この作品が宮本輝の小説を原作としていることにあったのかもしれないが、何かその朴訥な映像を俄かには信じることが出来なかったように思われる。『誰も知らない』がカンヌで大変な話題になっても、我々はまだ懐疑的だった。「これは柳楽の演技力の賜物ではないのか?是枝の演出がここにあるのか?」という具合に自問し、是枝を映画作家として認めることを留保し続けたのである。



少なくとも私が是枝を意識せざるを得ないと感じたのは、2008年の『歩いても 歩いても』を見たときからである。医者であった父(原田芳雄)と、その父の期待を裏切って家を出た息子(阿部寛)が妻(夏川結衣)を連れ、久々に実家に戻る。当然ながら生じる父との葛藤。母(樹木希林)、姉(YOU)との穏やかな語らい。そして、家族の中で封印された過去…。ここには間違いなく「家族」をテーマにして現代の人間の姿を描き出す映画作家がいた。作品を見るものは、一瞬でも画面から目を逸らすことが出来ないほど、登場人物の一挙手一投足に夢中にさせられたはずだ。

あまりにも話題になった『そして父になる』が「家族」の問題と言うよりも「親子」の問題に収斂したのに対し、『海街diary』(2015)は原作ものとはいえ、再び「家族」に焦点を当てる。普通に考えれば、綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆の三姉妹が暮らす家に異母妹の広瀬すずがやって来るという物語など、商業映画以外の何物でもないだろう。だが、この作品で四人は間違いなく「家族」としての在り方を模索する姉妹として存在しており、そこに母(大竹しのぶ)や大叔母(樹木希林)も加わることで、常に不安定なままの彼女たちの行く末を我々も思いやらずにはいられなくなる。やはり是枝の作品が光輝くのは「家族」をテーマとする時なのだ。



そして、再び阿部寛を主演に据えた『海よりもまだ深く』(2016)では、是枝のオリジナル脚本によって、崩壊した「家族」のつながりを取り戻そうと苦悶する男の姿が描かれる。売れない小説家(阿部)が別れた妻(真木よう子)と息子との関係を振り返る中で、失ったものの大きさをようやくにして悟るという物語であった。普通ならば悲哀を感じさせる主人公を演じる阿部寛は、持ち前の喜劇性を持ちこむことで崇高なまでの域に達している。だが、これは「家族」(とその崩壊した姿)をアンサンブルで造形する是枝の奇跡的な演出力があるからこそ成り立っているに違いない。

そして、最新作は『万引き家族』。仏語タイトルは ≪ Une affaire de famille ≫。ついにタイトルに「家族(famille)」の文字を入れ、正面から「家族」とは何か?という問いに向かおうとしている。この作品にパルム・ドールをもたらした審査員、女優ケイト・ブランシェットが「圧倒させられた」と言い、映画監督ドゥニ・ヴィルヌーヴが「魂を鷲づかみにされた」とまで言う映画は一体どういう映画なのか、それは見るまでは分からないが、我々の期待を裏切ることはないであろう。そして、「対立する人と人、隔てられている世界と世界を映画によって繋ぐことが出来るのではないか」と受賞時のコメントで語る映画作家の真摯な姿勢を疑うことはもはや誰にも出来ないだろう。



小津安二郎、そして木下恵介。日本映画には「家族」をテーマに作品を撮る系譜が確実に存在していたが、そこに是枝を加えることが出来るだろう。彼らは東洋の島国だけの小さな世界を撮っていたはずだったが、いつのまにか普遍的なテーマに辿り着いていたのかもしれない。是枝の映画は、家族を求め続けたトリュフォー、そしてそのテーマに周期的に回帰するヴェンダースのような大作家たちと同次元にあり、そして一層現代的であろうとしている。世界のシネフィルたちは今後も是枝の作品から目が離せないであろう。


posted by 不知火検校


posted by cyberbloom at 21:15 | パリ ☁ | Comment(0) | 日本と世界の映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2020年02月19日

『ファントム・スレッド』

映画『ファントム・スレッド』が公開されるとすぐ、いそいそと映画館へ出かけた。監督のポール・トーマス・アンダーソンもご贔屓だし、主演のダニエル・デイ・ルイスもその演技を見届けたい数少ない俳優の一人。が、ここまで心待ちにしたのは、伝説のクチュリエ、クリストバル・バレンシアガを垣間見せてくれるという前評判を読んだからだ。



主人公はモード界の帝王と讃えられる英国人デザイナー、レイノルズ・ウッドコック。時は1950年代。彼の「城」であるロンドンのアトリエには世界中から金と時間を持て余した女達、成金のヘアレスから貴族階級のマダム、某国の王女様といった方々が押し寄せる。ミュージアム・ピースの域に達した工芸品とでもいうべき彼のドレス―デザイナー自ら針を持ち仕立てた夢のような一着−を自分のものにするために。彼の生活はほぼ100%仕事のために捧げられている。上品な美男ながら華やかな顧客達とは距離を置き、浮いた噂ひとつない。ひたすらデザインし、創作に打ち込む人生に彼が本当に満足しているかは誰にもわからない。

このキャラクターは、脚本を手がけたアンダーソン監督が一から造り上げたものではない。場所をはじめ細かな設定は変えてはいるけれど、そこから透けて見えるのは、1930年代にパリ、ジョルジュV通りにブティックをオープンしてから1968年に突然引退するまでモード界に君臨したクリストバル・バレンシアガだ。今やカジュアルなコットンのバッグのロゴとしてしか認知されていないけれど、モード界を去るまでバレンシアガは「絶対的」な存在だった。

新しいシルエットを提案した等、モード史を眺めてバレンシアガの功績を箇条書きすることはたやすい。しかし、それは「退位」後にまとめられた栄光の残り香に過ぎない。人々をひざまづかせたのは、彼の服の圧倒的な存在感に他ならない。

服は着る人があってこそ輝くもの、美術館に展示されたドレス達は名品といえど何やら寂しげで、影の薄さを感じさせる。が、バレンシアガのドレスは違う。顔のないトルソに着せかけられた状態でもそれはただ、美しい。

しかも、バレンシアガの服を着た人はもう他のメゾンの服が着れなくなる、と言われるほど着心地がいいのである。空気のように身体を包み、鏡に映せば体型の七難をきれいに消してあなたを美しい人に変える。

当然のことながらお値段も立派だ。手の込んだドレスを一着オーダーすれば、当時の平均的な男性の年収に匹敵する額が請求された。しかし、そんな請求書を眉一つ動かさず受け取れる身分の選ばれた大人の女達が、絶えることなくメゾンを訪れた。また、欧米の高級百貨店は、2倍の金額を払って服のデザインを買い、モード誌の読者である顧客にぐっとお求めやすいコピー商品を販売した。社交界から都会の片隅までその名が知れ渡った、パリ・モードの代名詞−バレンシアガ。しかしデザイナー本人は、その名声にも関わらずその姿をメディアの前に曝すことはほとんどなかった。

正式なインタビューの依頼に応えたのは引退後の一度きり。エキゾチックな美しい容姿に恵まれたにも関わらず写真に取られるのも、マスコミに取り巻かれるのも嫌い。心を許した少数の人々としか付き合わず(法外な金を落とす「太い」お客様でも親しく接するとは限らない)、生涯独身を通す。「バレンシアガは実在しない」というデマがまことしやかに囁かれた程、謎めいた人物だった。

両腕ともに利き腕という驚異的なドレスメーキングの才能にも恵まれ、デザインを描くだけでなく腕利きの仕立て職人やお針子達に混じって白衣姿で針を持ち続けた。寡黙で、己に厳しい人だった。拍手喝采で終わったコレクションの後、スタジオでお披露目したばかりの作品を引き裂いていたという逸話も残っている。それまでの人生を振り返って、「犬の生活だった」と後年語っているが、その表現には自嘲を超えた重さがある。

映画は、そうしたバレンシアガの仕事の現場を、メゾンのインテリアや顧客のために用意された椅子に至るまで「ウッドコックのブティック」として再現している。モノクロ写真でしか知らない伝説の場所、そして固唾をのむ顧客達の沈黙が支配したというサロンでのコレクションの発表―デザイナーが選び抜いた無表情のハウスモデル達が、番号札を掲げて室内を一回りするだけの簡素きわまりないもの―も見せてくれた(覗き穴から客の様子を伺うデザイナーの姿も含めて)。伝え聞いて妄想してはみたものの、実際にスクリーンで見たそれは胸を躍らせるものがあった。ダニエル・デイ・ルイスも、バレンシアガが漂わせていただろう厳しさと情熱を体現して見せてくれた。(バレンシアガの上客だった、満たされない人生を送ったアメリカのビリオネアの女性もしっかり登場していた)。バレンシアガのものとは違うけれども、ドレスの美しさも堪能できた。

しかし、監督自ら語っているように、バレンシアガはあくまでインスピレーションを授けてくれた素材でしかない。レイノルズ・ウッドコックとクリストバル・バレンシアガは似て非なる存在だ。その違いを通して眺めると、また興味深い。

ウッドコックの美への献身は、ごくプライベートな欠落感が原動力になっている。美しいものに魅了されていて、それを我が手で創り出すことに執着はしているものの、どれだけ仕事をしても欠落感は深まるばかり。塞がることのない穴をどうにかしようというあがきが、デザイナーとしてのウッドコックを突き動かしていたように見える。

バレンシアガは、生活してゆくために針を持った。スペイン、バスク地方の漁村に生まれ、12才で船乗りだった父を亡くし、お針子として兄妹を養う母を助ける立場にあった。雇われの身から起業しついにパリで成功してからも、スペインに残る妹達とその家族がバレンシアガ・ブランドに携わり立派に生活できるよう取りはからった。数多い従業員のことを考え、税金に頭を悩ませる経営者でもあった。

一方で、美しい服を作ることは幼いころからの望みだった。避暑のためにバレンシアガの村を訪れるカサ・トレス侯爵夫人のドレスの補修を母がしていたため、最新のパリ・モードのドレスに接していたせいもある。12才のバレンシアガはある日、高貴で洗練された美しさで名高い奥様の前に進み出る。「パリでお作りになったそのドレスと同じものを作ってみせます。」出入りのお針子の息子からの唐突な申し出に驚きつつも、侯爵夫人は必要な材料と道具を与えてみた。そして、立派に仕立てられたドレスを手に入れたのだ。侯爵夫人の口添えもあって、バレンシアガは都会に出て仕立て職人の見習いになる。美を探求することを許されたもの、アーティストであることの誇りが、彼を奮い立たせ続けたのかもしれない。

ウッドコックはついに欠落感を埋めてくれる、彼の追い求める美とはほど遠い女性と巡り会い、「幸せ」になる。しかし、欠落感が埋まり彼を縛ってきたものから解放されたことで、デザイナーとしてのウッドコックは緩やかに、確実に凋落してゆく(沢田研二の名曲の一節「男と女が漂いながら/落ちてゆくのも幸せだよと」が思い出されて仕方なかった)。この落ちてゆくめくるめく陶酔感が、この映画の本当の狙いであり美味なところだ。

バレンシアガは、引退後隠者のような生活を送り、ほどなく他界する。世間で言うところのわかりやすい幸せとは縁のない人だったかもしれない。しかし彼はウッドコックのような欠落感を味わうことはなかった。まず、心から愛したパートナーがいた。フランスとロシアの血を引くウラジオ・ダタンヴィルだ。貴族の出でバレンシアガが志した洗練された美を体現する人でもあり、スペイン時代からパリで名声を得るまで数十年の日々を一緒に過ごした。バレンシアガのデザインをより素晴らしいものにする帽子のデザイナーとして、ビジネスパートナーとして、バレンシアガを支えるとともに、思うような袖が作れないと煩悶するバレンシアガの苦しみ、クリエイターとしての才能と情熱を理解し慰めてくれる人だった。49才の若さでダタンヴィルが他界した時、バレンシアガは本気でメゾンを閉めることを考えたという。

また、愛する人を失ってからの人生も、光が射さないわけではなかった。息子のような年齢の若いデザイナー、ユベール・ド・ジバンシーとの出会いは少なからぬ意味を持ったと思われる。弟子ではなく商売敵であるにも関わらず、バレンシアガは自分のことを心から尊敬するジバンシーを見守り、手の内を披露し、仕事について親しく対話することを楽しんだ。美しいものの探求とそれを実現する技について語るに足る相手を得たことは、バレンシアガのデザイナーとしての晩年を潤いのあるものにしたに違いない。そのデザインはますます冴え渡った。当時発表された装飾的な要素を削ぎ落としたシンプリシティを極めたドレスは、時の移ろいをものともしない強い美しさを放っている。そして1968年、バレンシアガはメゾンを閉める。人生を彼の服で彩ってきた忠実な顧客達を心から信頼するジバンシーに託して。

人生いろいろ、である。どちらがいいということを言い出すだけ野暮だとは思う。しかし、厳しい道を歩んだバレンシアガが晩年に作り得た作品は、彼の献身に応えて天から投げられた花束のようなものではないか、と思うのだ。

この映画は音楽も素晴らしく、ドレスが放つうっとり感に見合う音が用意されている。トレイラーを見るよりまずこの音楽に接して頂ければ、映画の雰囲気がしっかり伝わると思う。
https://youtu.be/bT_XjcdgT6g

故郷ゲタリアにあるクリストバル・バレンシアガ美術館の所蔵品の映像。圧巻です。
https://youtu.be/VGrwn24aN_A


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posted by cyberbloom at 10:15 | パリ ☁ | Comment(0) | 日本と世界の映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2020年02月16日

『BPM ビート・パー・ミニット』

『BPM ビート・パー・ミニット』を見た。2017年のカンヌ映画祭グランプリ受賞作。1990年代初頭のフランスでエイズ患者の権利拡大やエイズを巡る諸問題の解決を目指し行動するグループ、「アクト・アップ・パリ」に参加した人々とその戦いを描いた映画だ。 グループには、HIVポジティブと判定された当事者やその家族もいる。そしてゲイ、レズビアンであるとカミングアウトしている人々も多数関わっていた。



その活動はけたたましく、過激だ。啓発ポスターを貼る、会議で発言する、デモをしビラを配布するといった世の理解が得られやすいこともする。が、そこで終わらない。きれいごとばかりの公的シンポジウムや患者への配慮のない製薬会社に殴り込みをかけ、ホイッスルを吹き手製の血糊をまき散らす。授業中のリセのクラスに乱入、生徒にコンドームを配り超実用的なエイズ予防のゲリラレクチャーをする。祭りの屋台の水ヨーヨーが顔にダイレクトヒットしたような、そんな衝撃を受けた。

なぜそこまでやるのか?それは、黙っていては誰も何もしてくれないことがはっきりしているからだ。当時、エイズのことを「社会の鼻つまみ―宗教的なタブーを犯しているペデやら売春婦、ジャンキー(注射器の使い回しで罹患していた)やら−を一掃してくれる恩寵」とのたまう輩も決して少数派ではなかった。「悪癖」のない自分達には関係ない、というスタンスを社会が取り続ければ、エイズは病気の知識のない人々を巻き込み、蔓延する。

またHIVポジティブの告知から一足飛びに死に向かうわけではない。感染後も人生は続く。だからこそ社会に対し感染者の存在を主張しなければいけない。今現在も続くあからさまなヘイトを恐れ性的志向を隠してきた人も、「エイズ患者であり同性愛者でもある私」の存在を世間に認めさせなければならなかった。普通、私は病気ですと外に向かって大声でアナウンスすることなんかしない。しかし声をあげなければ、戦わなければ、いないも同然に扱われ、日陰の身として生きてゆかなければならない。どうしてそんな目にあわなければならない?確実な治療法もない状況で、グループの若いメンバーや身近な友人がT細胞の数を減らし、発症し一人また一人と命を落としてゆく。やるしかないのだ。

当時、グループのメンバーだった監督ロバン・カンピヨが、かつて自分がいた場所についての映像作品を撮るにあたりドキュメンタリーではなくフィクションを選択したのはとても自然なことだったのだなと思う。過激な活動を記録した当時のニュース映像やインタビューをつないでも、仲間達の「熱」は伝わらない。感情の暴発と取られかねない行動の一つ一つが、メンバー間の激論の末採択され実行されたものだったのであれば尚更だろう。

この映画の見せ場の一つはミーティングの再現場面だ。政府や製薬会社に対する要求といった活動方針の決定からポスターに使うキャッチコピー選びまで、手話も交え全てをみんなで話し合って決める。ディスカッションはルールに乗っ取って進行する。例えば、賛意を示すときは拍手ではなく指を鳴らす(やかましくならないようにという配慮らしい)。大学の大教室とおぼしき会場いっぱいの人々が一斉に指を鳴らす場面は壮観だ。


議題はシリアスだが、しかめっつらした人の集いとはほど遠く、軽口や陽気なやりとりも飛び出す。ミーティングは「出会い」の場でもあった。ただ、参加者は遠慮なく意見をぶつけあう(これは俳優達が演じるお芝居なのだというお約束を忘れそうになる程だ)。言葉とその裏にある思いの応酬に煮詰まり、みんなが疲弊しどんよりすることもある。でも会場の外で一服ふかして、また戻ってくる。逃げるわけにはいかないことをわかっているから。

みんな知っているのだ。この病気は普通に暮らしてきたす誰の身にも起きることを。ティーンエイジャーの頃初恋の人と思いを遂げた結果感染し、青春時代を「未来のエイズ患者」として生きなければならない人もいる。彼に非があるとするなら、それは病気のことを知らなかった、それだけだ。検査をクリアできた人も、それまでたまたまラッキーだっただけ。

しかも、エイズは愛をひどく複雑にする。相手に対しどれだけ誠実でいられるのか。感染の事実を伏せておくのか、それともきちんと伝えるのか。感染していることも「込み」で相手を愛せるのか、踏み込まずにおくのか。そして互いにあきらめるのか。人を好きになれば、自分が相手とどう関係していくのかをいやでも考えなければならない。でも、恋に落ちてしまうものなのだ。

激しいアクト・アップの活動と隣り合わせに日常があり、メンバー達もそれぞれの毎日を生きていることも映画はしっかり描いている。フツーの若者としてアメリカ発の最新の音楽をチェックし、お気に入りの曲を集めたテープを交換したり、みんなでクラブにも踊りにいく。この映画でたくさん流れるのは、踊りの場でかかっている当時のハウス・ミュージックだ。映画の原題“120 battements par minuite”も、ハウス・ミュージックの典型的なテンポだったりする。まさに時代の音だ。

照明を落としたクラブで規則正しいビートに身体をゆらして、私を消して踊る姿を見ていると、いろいろと考えてしまった。「踊るならファンク」派で、刺激的でどうにもたまらん音に踊らされ巻き込まれる楽しさが気持いいと思う人間だ。だから、ハウス・ミュージックは詰めが甘く単調に感じられて積極的に聞いてはこなかった。しかし、この淡々としたパッシブな感じこそがこの音楽のキーなのかと思う。他人の視線を意識しなくていい、踊る人本位のダンス・ミュージックなのだと。踊りながら私の中にもどんどん沈み込んでゆけるし、互いの心音を聞くように相手の中へも入ってゆける。それはある意味とても自由で、踊る人を開放してくれる音楽だったのだなと。踊る「アクト・アップ・パリ」のメンバーの背景で流れていた、当時のハウス・ミュージックを代表するこのトラックは、映画を見てしまった今まったく違った顔で耳に届く。

聞いてみたい方はこちらでどうそ。
https://youtu.be/ZUsE5Rx-emk


posted by GOYAAKOD


posted by cyberbloom at 00:08 | パリ ☁ | Comment(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする