年末になると、要らなくなった大量の紙ゴミを処分する。授業で使った資料や、数年寝かせておいた10クラス以上の期末テストの答案。最近は個人情報保護法があるので、そのままうっかり捨てられない。うちにはシュレッダーがないので、鉄バサミで細かく切り刻む。すぐに指が痛くなってきて、紙の意外な強靭さと格闘することになる。捨てられる紙が抵抗しているように思える。毎年切り刻む紙ゴミはゴミ袋5袋分にもなる。銀行やカード会社からの明細書には倍以上量の広告が同封されている。ダイレクトメールやチラシで郵便受けはすぐに一杯になり、それを捨てるためのマンションのゴミ箱も常にあふれかえっている。紙ゴミの多さにうんざりして、DMやチラシを力任せにビリビリ破いてしまった経験は誰にもあるだろう。それは情報過多に対するいらだちでもある。氾濫する情報と自分との関係のなさにいらだつのだ。加えて、要らなくなった紙を再利用しようといくら努力しても、大半は捨てるしかないシステムにもいらだつ。
私たちは膨大な情報のなかから取捨選択しながら生きている。大半の情報は自分にとって無意味であり、捨てるしかない。そうしなければ生きていられない。紙はそういう現代人の日常的な行為の被害者なのだ。
紙ほど私たちの中に複雑な感情を沸き立たせる素材はない。リサイクルの象徴的な素材であるがゆえに、捨てるときには躊躇したり、後ろめたさを感じたりする。つまり紙はそれ自体が強力な批評性を持っている。紙は私たちにつねに問いかける。おまえはそれでいいのかと。そこには反省と思考への入り口がある。
一昔前にペーパーレス社会という言葉が流行り、これから紙を使うことは少なくなるだろうと言われた。コンピュータが従来の複製技術を超えたと言われるのは、情報をモノから独立させて処理できるからだ。モノへの依存から多少は脱却できるはずだった。しかし、相変わらず私たちは紙を手放せない。紙は単に情報を乗せて運ぶメディアであるだけでなく、人間はいつもその軽やかな素材を手に取り、それは人間の日常的な感覚によりそってきた長い歴史がある。とりわけ、日本文化は紙という素材の多様な質感を生活の中にうまく取り入れ、生かしてきた文化である。また子供が最初にモノを自分の手で加工することを覚えるのも紙を通してだろう。
ところで、紹介する本は、紙とデザインの近未来を展望する「リ・デザイン-日常の21世紀」という展覧会に基づいて書かれている。著者は、日本で生まれ世界に広がった独創的な商品コンセプト「無印良品」のアート・ディレクターとしても有名であるが、その著者が仕掛けたのは、建築、プロダクト・グラフィック、照明、インテリア、広告、写真、文筆など、様々なクリエイティブ分野で活躍している人たちに、身近にある物品を新しくデザインし直してもらうというプロジェクトである。日用品が題材になり、デザインそのものが日常に深く関わる技能であるので、素材の大半が紙になることは容易に想像できる。建築家では、ポンピドゥーセンターの分館を設計した坂茂がトイレットペーパーを、また隈研吾はゴキブリホイホイをリ・デザインしている。
先ほど、紙自体が批評性を持つと書いたが、優れたデザインはそれをさらに先鋭化するのだ。著者によると、デザインとアートと違いは、アートが個人の自己表出が動機であるのに対して、デザインの出発点は社会の側にあるという。社会の人々と共有できる問題を発見し、それを解釈していくプロセスにデザインの本質があると。
最近、アートや芸術と言われると、相変わらずな「目的なき合目的性」の主張が逆に胡散臭く感じられてしまうのだが、世界全体を合理的でサステナブルな均衡へと誘導しなければやっていけないことが明らかになってきた今、むしろデザインの果たす役割の重要性が増しているように思われる。デザインは人々にそれを気づかせ、それを支えるような価値観やものの感じ方を引き出すことができるからだ。
それに加え、倫理や道徳を声高に主張することが、成熟した社会を動かすにはあまり効果的ではないということだ。むしろアーキテクチャーをデザインしていくことで、人々がそれをカッコいいと思い、ものの見方を変えてくれることに感動しながら、またそれに誘導されつつも自発的に行動していると実感しながら、社会が変わっていく。
そのような大きなパースペクティブに関わるのはモノのデザインではなく、街のデザインである。例えば、RE-DESIGN によって再生されたヨーロッパの地方都市。そのアーキテクチャーのデザインは若者を惹きつけ、人々の自発的な行動を促し、新たな公共性を構築している。もちろん、ヨーロッパを美化するつもりは全くないが、その成功例から学ぶことは多いだろう。
RE DESIGN―日常の21世紀
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原 研哉
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芸術の陰に芸術家たちの苦闘ありとは申しますが、アトリエで、書斎 で芸術家がじたばたすれば芸術作品が生まれるかというと必ずしもそうではない。絵を描くにも絵具が、キャンバスがいるように、芸術作品の完成にはおカネが必要。美術館で観る事ができる作品の大半は、パトロンが気前よく解いた財布のヒモのおかげでこの世に存在しているのです。 ![Pen (ペン) 2008年 1/1・15号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/31K3%2BEmiljL.jpg)
ドイツのフランクフルト(Frankfurt)は、欧州中央銀行があるようにドイツの商業、金融の中心として有名だが、その歴史は対ゲルマン人(ドイツ人)の古代のローマ軍の駐屯地から始まった。フランク王国メロヴィング朝を開き、498年にはカトリック教に改宗したクローヴィス1世は500年頃アレマン族に戦いを挑み、マイン川の浅瀬を渡り、彼らをその地から追い出した。「フランク族の渡渉点」を意味するフランクフルトという地名は、その戦闘に由来する。

1969年、ドライブ中のカップルが銃撃され、女性が死亡する事件が起き、警察に「自分がやった」と電話がかかってくる。その後、新聞社に「ゾディアック」と名乗る人物から、犯行の内容を語る手紙と暗号文が次々に届き、同時に新たな殺人事件も発生する。担当の刑事(マーク・ラファロ)、新聞記者(ロバート・ダウニー・Jr.)、そしてその新聞の風刺漫画家(ジェイク・ギレンホール)は、それぞれ事件を追っていく・・この映画は実際にアメリカで起きた未解決の連続殺人事件を扱ったものです。「ブロークバック・マウンテン」の色っぽいジャック役だったジェイク・ギレンホールが、一転して地味で真面目な青年を演じています。
それぞれの地域の警察が情報をうまくやり取りしなかったことで、犯人に接触する機会を逃してしまったり、ゾディアックからの手紙の内容をテレビで流したために世間がパニックに陥ったり、警察から情報を得られないまま自己判断で犯人像を仕立て上げた新聞記者が今度はゾディアックの標的となってしまったりする状況は現在起こったとしても全くおかしくないわけで、とても40年近く前の事件だとは思えない生々しさが伝わってきました。そして皮肉なことに、解決に一途の光が見えてくるのは、世間が事件を忘れ去ろうとしたころ、依然として関心を持ち続けていた風刺漫画家が、警察と「陰で」連携して独自に調査を進めたときからなのです。
この作品を観た人たちの感想をネットで見たところ、「退屈だった」という意見が多くて驚きました。たしかに監督がこれまで撮ってきた「セブン」「ゲーム」「ファイト・クラブ」などと比べれば、派手な展開もなければ、大どんでん返しといったサプライズも見当たらず、そういった内容を求めた人には期待はずれの映画でしょう。しかしながら、余計な小細工や無駄に感情的な部分を省いた正攻法で真摯な撮り方、タイトな物語構成、丁寧に再現された70年代の空気がすばらしく、私には2時間37分の上映時間があっという間に思えました。



* 材料 (トマト5個分)
★U2のボノが8日夜、フランス大統領官邸であるエリゼ宮に招かれ、噂のセレブ・カップル、サルコジ大統領&カーラ・ブルーニと、プライヴェートなディナーを楽しんだとか、サルコジ大統領のセシリア前夫人が「薄情」「女好き」などと大統領を批判したとされる暴露本が11日、売り出されたとか(写真は別の本だが今週3冊の暴露本が発売された)、大統領のゴシップ系ニュースが氾濫している。国民戦線のルペン党首が大統領の年頭のインタビューに対して、おまえの彼女の話なんぞどうでもいいんじゃ、とご立腹だった(TF1)。他のテレビのコメンテーターも、どうでもいいことばかりで話題を作って、国民は騙されないぞって怒りをあらわにしていた。

みんな一生懸命生きている!
■フランスでは1月6日のエピフィニー(イエスの誕生を東方の三博士が祝福した日。公現節。)をお祝いするときに、ガレット・デ・ロワというお菓子を食べます。サクサクとしたパイ生地にアーモンドクリームがたっぷり入った焼き菓子ですが、フェーブと呼ばれる小さな陶器の人形がひとつだけ隠されており、切り分けた中からフェーブが出てきた人は紙製の王冠をかぶって「その日1日王様になれる」という特典?付のお菓子です。友人の話によると、南仏のほうではパイ生地がブリオッシュ生地だったり、中のクリームがオレンジ風味だったりと地方によっても違いのある伝統菓子のようです。昔は乾燥させたそら豆(fève)を隠して入れていたというフェーブですが、とてもたくさん種類があって毎年色々なデザインのものが売られていて、コレクターも多いとか。