2019年04月02日

『新世紀 パリ・オペラ座』

パリ・国立オペラ座。17世紀に設立されてから世界中の才能を招き寄せ、延々とオペラとバレエの公演を続けてきた。ロッシーニやヴェルディの名作、バレエの古典『ジゼル』や『ラ・シルフィード』を初演している。1875年開場の豪華絢爛なネオ・バロック形式の劇場、ガルニエ宮と1989年に建てられたオペラを主に上演するモダンな第2劇場オペラ・バスティーユで年間400回近く公演の幕を開け、のべ約8万人もの観客が押し寄せる。擁するバレエ団は世界でも屈指のバレエ団として有名。



以上がネットでさっくり調べた情報。が、取りこぼしているもののほうがずっと大きいのではないか。フランスの威信がかかった芸術の発信地であり、シーズン初日には大統領もやってくる内外国の要人が集う社交の場であり、300年もの歴史を背負いながらも新演出、新作を舞台にかけて攻める姿勢も失わない、数知れぬ人を巻き込んで生き続ける巨大な生きもののような組織。個人的にそんなイメージがあるが、それでもまだつかみどころがない。音楽・バレエに関心のある方には特別な存在、誰も名前ぐらいは知っている、けれど本当のことはよく知らない―そんなオペラ座を、ノーナレーションで追っかけたのがこの映画だ。

カメラが入り込んだ時期は、何事にも動じないように見えるオペラ座にとってもタフな時期だった。フランスの歴史にも、文化史にも名を刻んだシャルリー・エブド事件とパリ同時多発テロ事件が起こった。オペラ座の内部も大荒れだった。新たな一章の始まりと期待されたバレエ団の新芸術監督バンジャマン・ミルピエが一年半であっさり退任してしまったのだ(奇しくも就任時の華やぎと退団時の冷ややかな空気をカメラは捉えることになった)。職員のストライキ、開演間近の出演アーティストに絡むごたごた(実はどの大劇場も経験する災難)はまだ小さなトラブルのレベルだ。

身震いするオペラ座を内側から眺めるにあたり、視点を提供してくれる二人の人物が選ばれた。一人はオペラ座総裁ステファン・リスナー。一番偉い人である。どんなハイソでシックな人物かと思いきや、親しみやすい笑顔を振りまく恰幅のよいビジネスマン然としたおじさん。10代で小劇場を立ち上げたのを振り出しに裏方仕事から舞台監督まで幅広く経験を積み、パリ管弦楽団のマネジメントやシャトレ座などの有名劇場の運営、国際音楽フェスティバルの総監督と音楽・舞台の仕事にずっと携わってきた業界の大ベテランだ。2014年にオペラ座のポストを引き受ける前は、イタリアのミラノ・スカラ座を取り仕切っていたというというから、その手腕の程がうかがえる。

が、そんな辣腕をもってしてもさばききれないほど、やるべきことは押し寄せる。上演演目についての議論といった「本来の」お仕事から1000人を超える職員の処遇の問題、コアなファン以外の人々も呼び込めるようなチケットの値段設定といった今後の展望、おカネに絡む問題にも取り組まなければならない。観劇に来た大統領のお相手だって務める。大統領のボックス席のどこに座ればその夜の業務をこなす上でベストなのか、なんてことまで自分で考え、決めなければならない。

ここまで公にしてしまっていいいのかとびっくりするような言動もカメラは収めている。特にミルピエ退任までのやりとりはスリリングだ。(噂される退任の原因が見えてくるようなミルピエ本人のショットがちらりと出てきたのも興味深い。)将来を預けたアーティストの意向を最大限尊重したくもあるが、とにかく舞台の幕を開けなければならない。アーティストと一緒に立ち止まるわけにはいかない。難題を前にしたときのリスナーのしたたかさと行動力は見物だ。8階にある総裁の部屋の壁面はガラス張りになっていて、オペラ座前の風景が一望できる。まさに下界を睥睨する部屋なのだが、その場所に陣取る男の立場で眺めるオペラ座は人間くさくておもしろい。

もう一人は駆け出しのバリトン歌手、ミハイル・ティモシェンコ。ロシアはウラル地方の片隅から声を頼りにドイツへ留学(事実耳に残るいい声なんである)。将来のスターを育てる人材育成プログラムのオーディションに受かって、オペラ座へやってきた。ドイツ語はまあまあ、英語はナントカ、フランス語は大丈夫?というレベルの純朴そのものの黒髪の青年は、新参者としてオペラ上演の現場を歩き回る。カメラが捉える彼の視点から見た世界はわくわくすることばかり。(有名オペラ歌手の素顔だけでなく、オペラ上演の裏側もたっぷり見せてくれ、オペラファンにはお楽しみが多い。)尊敬するあの歌手が僕に声をかけてくれた、ファンではなく歌手の一人として!まだ20才そこそこ、舞い上がったり落ち込んだりと忙しいミーシャ君が成長してゆく姿もカメラは追う。借りものの上着を着ているようだった彼のフランス語の歌がどうなってゆくかは注目だ。

そしてこの映画は、さらにもう一つ視点からオペラ座を眺めている。オペラ座を支える裏方仕事への眼差しだ。細かいショットを積み重ねて紹介されるのは、併設のレストランの調理場のスタッフから舞台裏の人々のためのアナウンス係まで実に様々。衣装を洗う、アイロン掛けするといった数えきれないほどの細かい仕事があり、それだけをこなす人がいて、なんとか回っているのである。奇抜なオペラ演出のために特別に投入した「あるもの」を世話する人も登場する(何であるかは見てのお楽しみ)。どんな職場でもある対個人レベルでの細かい気配りやフォローが公演を支えているのがよくわかる。スマートフォンがスタッフの仕事を増大させているのも興味深い。時代とともに内容に多少の変化はあってもなくなりはしない舞台裏の細かな雑用を、人対人の細やかなやりとりでこなし続けてきたからこそ、オペラ座は生きながらえてきたのだ。

立場が違い、職場が違い、歩む道が違う。直接顔を合わせることすらないかもしれない。しかし、巨大な劇場のあちこちで働く人々が最終的に目指しているのはただ一つ。舞台の幕を開け、高揚した観客を送り出すこと。このベクトルが「巨体」を動かし続けてきたのだと実感する。2017年9月に今シーズンの幕は開いた。オペラ座はまた一年を生きながらえる。


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2019年03月24日

『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』

実在の人物を描いた劇映画は、大なり小なりヒーロー、ヒロインの映画になる。映画のおもしろさは、ヒーロー、ヒロインの側へ観客をひきこめるかにかかっている。だからこそ、映画の作り手は前へ進むヒーロー、ヒロインの傍らにいて、その人生のアップダウンに半ば巻き込まれてもいる。



芸術家として名を為した後のロダンの人生についての映画を作るにあたり、ドワイヨン監督は逆にヒーローであるロダンから距離を置いた―画家とイーゼルの向うがわにいるモデルのような位置関係に。

映画そのものはバイオピクチャーの王道から外れてはいない。写真で目にした数々の代表作が完成してゆくプロセスが見られるなど興味をそそるエピソードがたくさん盛り込まれ、歴史に名を残したあの人この人がちりばめられてもいる。しかし、ロダンの人生をよりおもしろく見せ観客を高揚させるような積極的なしかけはない。ロダンのことを世間がどう思っているかすらも伝え聞き程度にしか明かされない(ロダンの作品を見た当時の人々の生なリアクションはほぼ排除されている)。演出を支えるオーダーメイドの映画音楽も控えめだ。耳につくのは窓の外から漏れ聞こえる鳥の声や生活音。映画全体が、ある種の静謐さに包まれている。

そして、観客に自然の光の存在をおおいに意識させるような画面作りが随所に見られる。同時代の印象派の画家達がおもわず筆を取りたくなるような光線の濃淡の中で、ロダンの人生は展開してゆく。スクリーンのこちら側にいる者は、のめり込むどころかそれこそ「ロダンの一生」という絵本を眺めているかのような気にさせられる。

しかしこの距離感こそが、とっちらかったロダンの人生を語るのに必要だったといえる。40才過ぎまで世間から顧みられなかったことから生じたコンプレックスと屈折、彫刻家としてともに美しいものを目指す理想的な若い恋人カミーユ・クローデルにめろめろになる一方、苦しい日々を支えてくれた内妻ローズがもたらす平穏を捨てきれず、優柔不断で非力な立場につい甘んじてしまう。いい女達には手を出さずにおられないし、こんこんと湧き出るエネルギーに身をゆだね、ひたすら描いて作って―なんともぐちゃぐちゃ。が、ぐっと引いた視点から眺めると、「芸術家だからしかたがないか」と見ない事にしていた「裏」ロダンとも向き合える。ヴァンサン・ランドンが演じる権威を感じさせないロダンを見ていると、この人なりにせいいっぱいやってきたのだななどと思ってしまう。とても肯定できないけれど。

ウィキペディアに列記される類の大きな出来事とおなじぐらいの熱意をもってロダンの日常がていねいに描かれていることも、ロダンへの眼差しを変えてくれた。倉庫のような粗末な空間に粘土と石膏の大バケツ、作りかけの作品、手足のパーツがあちこちごろごろしているアトリエ。そこらへんで奇抜なポーズを取る、きれいなはだかの娘たち。華やかな場所とは縁遠い、汚れた仕事着姿。天才と呼ばれた芸術家も、私たちと変わらず何の飾り気もない日々を積み重ねている。遠いのだけれど、私とは違わない人がそこにいる。

静かなトーンの映画の中に強い色を持ち込んでいるのが、カミーユ・クローデルとの物語だ。『サンバ』で勝ち気なボランティア嬢を好演したイジア・イジュラン(元々はシンガーで兄はアルチュール・H、女優のキャリアは浅く本格的な映画出演はまだ数作目というからはびっくり)がスクリーンに登場させたクローデルは、伝説の麗しきアーティストではなく今のおっさんも惚れてしまうような活力と内面からの魅力に溢れた娘(こんな感じではななかったのかしらんと想像していた通りのクローデル像で、個人的に大いに納得)。ロダンが恋に落ちるのは当たり前―。

だから、彫刻家同士という特殊な立場ではあるものの、今も世のあちこちにいるだろう、同じ理想を目指して歩む惚れた同士の男と女としてロダンとクローデルは描かれている。甘いささやきから身を切るような言葉の応酬まで、二人の間の愛憎は実在の有名人という断り書きをはずしてもLoversの物語として見応えがある。

この映画の中で最も密度の濃い瞬間も、二人の物語の中にある。ピュアな蜜月から少しづつ醒めてゆく前のロダンとクローデルが、クローデルの新しい作品、男女の踊る姿をモチーフにした「ワルツ」を前にしてぎこちなく踊る。踊れないくせにとからかわれつつも手を取り腰を抱くロダンと、相手に身を委ねおぼつかなくメロディを口ずさむクローデル。数分もない短い場面だが、あからさまな「愛する二人」のショットをどんなに重ねても作り得ない、言葉にできない万感の想いが凝縮されている。こういう瞬間に会えるからこそ、映画はやめられない。

細部の美しさにもふれておきたい。室内の調度やろうそくの灯り、風になびくカーテン、といった何気ないものにも目がいく作りになっている。時代物映画にありがちな、今とは違う世界だったのねと認識させるだけの時代風俗のリアルな再現とは趣向を異にする。ロダンの生きた時代に今の観客を自然に溶け込ませる配慮のようにも感じる。

映画は最後の最後に観客を思わぬ所へ連れて行く。びっくりされる方も多いかと思う。そしてこうも思われるかもしれない。これまで劇場の暗闇でひとときをともにした、100年前にこの世を去った男と私とはつながっているのだと。

映画館に行く前に、ちらりとウィキペディアなぞ眺めておかれることをおすすめします。よりすんなり映画が入ってきて、深く楽しめるかと。


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2019年03月20日

『ルージュの手紙』カトリーヌ・ドヌーヴ&フロ主演

原題の Sage femme は「助産婦」の意味だが、邦題は『ルージュの手紙』である。ダブル・カトリーヌ主演なのに「助産婦」なんてあまりに地味なタイトルだからだろうか。確かに「ルージュの手紙」が登場するのだが、ユーミンの「ルージュの伝言」に似せて潜在意識に訴えようという作戦なのだろうか。



カトリーヌ・フロが演じる助産婦のクレールは49歳という設定だ。自分と同じ世代なので、とても身につまされる話でもある。アラフィフと言えば、これまでの人生を振り返り、人生の決算にとりかかりつつ、まだしばらくのあいだ残された人生を、しかしいつ中断されてもおかしくない人生を見つめざるをえない時期である。

助産婦のクレールは、確実に経験と実績を積み上げてきた。それが自分の仕事に対する自信と誇りにもなっている。20年以上も前に取り上げた赤ん坊が大きくなり、自分の出産のときに再び同じ病院に来るエピソードがある。あなたは命の恩人だと感謝されるが、それは母親が危険な状態になったとき、血液型が一致したクレールが自分の血液を提供したからだ。クレールには息子もひとりいて、やがて孫が生まれる。使命感を持って仕事をして、愚直に生きた。悪くない人生だ。しかしひとつだけ心にひっかかっていることがあった。その当人、継母のベアトリスが突然彼女の前に現れる。

再会したベアトリスは自由奔放に生きてきたツケを払っている。ベアトリスはカトリーヌ・ドヌーヴが演じているのだが、あまりにエレガントで重病人には見えない。役柄においても自分のスタイルを決して崩さないドヌーヴならではの演技は、醜態をさらすくらいなら死を選ぶんだろうなと自然に思わせる。クレールが「キスだけで人を幸せにできる」とその点については評価するように、ベアトリスの華やかな魅力は天性のもので、地道な努力によって人生を積み上げてきたクレールとは対照的だ。しかしクレールはベアトリスに少しづつ影響され、人生を楽しむことを学ぼうとする。

この映画が時代を反映しているとすれば、新しい生命の誕生を通して、経験と先端技術を対比させているところだろうか。クレールは最終的に「赤ん坊工場」で働くことではなく、自分が蓄積した経験を伝えることを選ぶ。映画で「赤ん坊工場」と揶揄される新しい病院のマネージャーは、「ここでは sage femme という言葉は使わず、新しく maïeuticienne (助産師の女性形)という言葉を使う」と宣言している。つまり経験に基づく昔ながらの「助産婦」と、最先端のテクノロジーによって高度に管理された医療システㇺで働く「助産師」が対比されている。前者の経験を支えるのが助産婦たちの手だ。

私自身、助産所で子供の出産に立ち会い、自分の手でへその緒を切った経験があるが、陣痛の波がやってくるたび、どこからともなく伸びてくる千手観音のような助産婦さんたちの手が印象的だった。出産の苦痛と孤独を癒すのは機械ではなく、「手厚い」ケアなのだ。かつての助産婦さんたちが介在する出産は、男尊女卑の伝統がベースにあり、女性によって囲い込まれたものだったが、近年は、カップルの関係性と選択において男が出産に関わるようになっている。クレールも出産に立ち会う際には積極的に男に出産に関わらせている。さらに外科医を目指して医学部に在籍しているクレールのひとり息子、シモンは助産師になりたいとさえ言い出す。クレールは女の仕事だと反対はするものの、シモンの意志は固い。こうやって医療側の意識も環境も変わっていくのだ。

時代の反映と言えば、複合家族的な関係もそうだ。クレールとベアトリスは、1970年代にオリンピックの水泳選手だったクレールの父親(=ベアトリスの夫)に生き写しのシモンを通して、共有する男の記憶を鮮明に蘇らせる。ベアトリスはシモンと別れるとき、死んだ夫を思い出すように彼の唇にキスをする。血がつながっていないからこそ、ある種人工的で倒錯的な絆を作る必要があるのだ。さらに彼らの関係を「水」が媒介する。それはパリを横切り、蛇行しながらクレールの住む郊外のイヴリーヌ県を巡るセーヌ川だ。水泳選手の祖父から水との親和性を受け継いだシモンがセーヌ川で泳ぐ姿を遠景で撮ったシーンが印象的だ。1923年に遊泳禁止になったセーヌ川も今や水質が改善し、泳げるようになっている。まさに2024年開催のパリ五輪ではセーヌ川で水泳競技が行われる予定だ。失踪したベアトリスは、シモンと水の中で出会えたのだろうか。


cyberbloom




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2019年03月16日

『ブレードランナー2049』ードゥニ・ヴィルヌーヴは電気羊の夢を見たか?

近年、映画業界ではフランス系カナダ人が熱い。その筆頭とも言うべきドゥニ・ヴィルヌーヴが、SF映画の金字塔として名高い『ブレードランナー』の続編を監督するというニュースが流れたとき、いかに今を時めくヴィルヌーヴとはいえ、そんなことが可能なのかと誰もが思ったに違いない。 だが、『ブレードランナー2049』は大方の予想を裏切り、一定程度の水準を維持したとは言えよう。



1982年にリドリー・スコットが監督した『ブレードランナー』の原作はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(朝倉久志訳、ハヤカワ文庫、1977年)。ディックの原作はSFの設定を借りたセリ・ノワール(探偵小説)であり、彼の多くの作品がそうであるように、すべての展開が迅速に進む為、読者が深い感情を寄せるような暇もないまま終わってしまう淡々とした小説だった。その「軽快なノワール」の部分に大幅に加味された叙情性(リックとレイチェルの恋)、そして、シド・ミードの美術とヴァンゲリスの音楽が相俟って、何度観ても魅力の尽きぬ傑作が完成する(この作品に関しては、加藤幹朗『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』筑摩書房、2004年の詳細な解説が役に立つ)。

2019年を舞台にした前作に対し、今回はその30年後の2049年が舞台。作品そのものは35年後の映画化となる。リックを演じたハリソン・フォードは前作では40歳だったが、本作では75歳。まず、ハリソンが出ているだけで前作ファンが泣いてしまうのは当然かもしれない(それにしても、1970年代でも2010年代でも現役バリバリのハリソン・フォードとは、一体何という俳優なのだ!)。しかし、彼が現れるのは後半の1時間ほどであり、そこには確かに前作との繫がりを窺わせる興味深いシーンが多々あるのだが、メインとなるのはむしろ今回の主人公Kが活躍する前半部分であろう。

主人公のK(ライアン・ゴスリング)がブレードランナーであり、彼がネクサス型のレプリカントを始末するという設定は前作と同様だが、何よりも違うのは彼自身もレプリカントであるということだ。観客は「レプリカントがレプリカントを倒す」、つまりは「ロボット同士の戦い」を見るということになる為、そこに感情移入するのはどうしても難しい。さらにまた、Kと相思相愛の関係にある恋人ジョイ(アナ・デ・アルマス)はホログラムの「商品」であり、実体としては存在していない。主要登場人物がこのように実体を欠いた存在であるという設定は珍しく、その意味では「希薄」な作品である。

しかし、この「希薄」さが今回の『ブレードランナー2049』の特徴であろう。ここには前作のようなリックとレイチェルの情熱的な愛もなければ、名優ルトガー・ハウアーが圧倒的な強度で演じ切った「レプリカントの最後」のような強烈な場面は全くない。前作が闇の中で蠢く未来の人類・非人類の「生命力」を沸々と感じさせる作品だとしたら、今作ではそのような「ややこしいもの」はきれいさっぱり洗い流されているように見える。

ヴィルヌーヴ自身は「前作が「黒のブレードランナー」だとしたら、これは「白のブレードランナー」だ」と語っていたが、それは単に色彩の点のみならず、映画の本質的な部分に関わる発言だと言って良いだろう。つまり、様々な部分が多くの意味作用を生み出し、多層化・重層化された作品であったの前作に対し、今作は「レプリカントの謎(物語中では「奇跡」と呼ばれる)」の解明に一直線に進んでいくため、極めてシンプルな構造になっている。

その為、ハリソン・フォードが登場して「謎」が一気に解決する後半部分は、物語のテンポは良く、映画としては確かに楽しめるかもしれないが、あの『ブレードランナー』の続編としてはいささか楽観的過ぎる展開だったかもしれない。レイチェル(ショーン・ヤング)の登場には前作のファンならば間違いなく狂喜してしまうけれども、ややサーヴィス過剰と言えなくもない。

しかし、最大の驚きは、にもかかわらず、163分というこの映画の上映時間が、全く長く感じられなかったことだった。それは、ヴィルヌーヴがこの『ブレードランナー2049』という作品の世界を完全に統御し、自家薬籠中のものにした結果、すべての出来事をごく「自然なもの」として提示していたからではないだろうか。「驚くべき世界」であるにも拘らず「当たり前の世界」のように2049年の未来を作り上げてみせたヴィルヌーヴには、やはり一定の評価をしてみて良いと思う。凡人にはこれは出来ない。

そもそも『ブレードランナー』のような傑作の続編を作ること自体が無理な話なのだ。そのようなどう考えても不利な状況で、一定の整合性を構築し、前作が持っていた雰囲気を壊すことなく、映画としての「味」を確かに感じさせる作品を生み出したことは、むしろ驚嘆すべきことかもしれない。大傑作ではないが、興味深い作品であるとは言えると思う。


不知火検校




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2019年03月15日

ティエリー・フレモー 『リュミエール!』

映画が誕生してすでに120年。映画技術はますます発達する一方、上映技術も3D、4D、IMAXなどますます多種多様化している。そのような中、始原の映画の姿を映し出す一本の映画が公開されている。『リュミエール!』と題されたその作品は、「映画の父」とも呼んでも良いリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフで撮影された作品108本で構成されている。



我々はリュミエール兄弟によって作られた作品をほぼ無意識的に見て来たと言って良い。『工場の出口』や『ラ・シオタ駅への列車の到着』などについては映画史を語るドキュメンタリーではほぼ間違いなく紹介されるし、『水をかけられた散水夫』などは何度そのパロディーを見せられたかというぐらいであろう(有名なところでは、若きトリュフォーが長篇デビュー前に撮った短篇『あこがれ』の中で、その忠実な再現シーンが映画に対するオマージュであるかのように現れる)。

だが、これだけの作品を一挙に見られる機会は、筆者の知る限り、近年では聞いたことはない。20年、30年以上前ならば、無声映画の上映会などはかなり頻繁に都内でも開かれていたけれども、最近では国立近代美術館フィルムセンターの特集上映にでも行かない限り、このような作品を見ることはほぼ不可能であろう。その意味では、『リュミエール!』を見ることは、映画史の重要な部分を知る貴重な機会であることは間違いない。映画ファンにとっては垂涎の企画と言って良いだろう。

非常に驚いたのは、リュミエールとそのカメラマンたちが撮った作品の撮影場所が、フランスのみならず世界各地であったことだ。近隣のイギリスはもちろんのこと、トルコやエジプト、日本までがこの初期映画の舞台になっているという事実に、今回、この映画を見ることで初めて気づかされた。これらの映像を見た当時の人たちの驚きは相当なものだったのではないか。映画というものを見ること自体が初めての人たちが、自分が行ったこともなく、写真ですら見たこともないような国の人々の姿を動く映像で見せられるのであるから。

1400本以上はあるという作品の中から選ばれた108本だけあって、どれも興味深いものばかりだ。もちろん、撮影技術などないに等しい時代の作品だから、クロースアップもなければ、パンフォーカスもない。ほとんどの作品が固定カメラで遠方にいる人物を写し出すという映像であるから、映像そのものに興奮させられるということはなかなか難しいだろう。しかし、そのような画面にわずかにトラヴェリングらしきものが現れるとき、映像が一挙に映画的な色彩を帯びる瞬間を我々はまさしく感じることになる。

つまり、ここに集められた映像は、まさに産まれたばかりの映画が最初の一歩を踏み出そうとしている瞬間なのだ(それは、この映画の中で映し出された幼い子供たちのよちよち歩きの映像と瓜二つのように思える)。映画はまだ自分が何者なのかを知らない。自分がまだどこへ向かっているのかもしれない。ただ、自分の可能性だけを探し求めようとしながら、フィルムが回っているだけなのだ。映画のその後の歩みを知る者には、この萌芽状態の初々しさは眩しく感じられてならない。

そして、驚くべきことは、ここにはその後の映画を予見させるものが詰まっているように感じられる点だ。それは、キートンやチャップリンのドタバタ喜劇の先駆けというだけではない。ロッセリーニの荒々しい映像も、ブレッソンの静謐な映像も、ゴダールの過激な映像もあり、また、ムルナウやウェルズの暗闇のみならず、溝口健二やタルコフスキーの光までもがその片鱗のようなものを覗かせているのだ。「始まりには全てがある」というが、まさにリュミエールの作品には映画のあらゆる要素の原石が含まれているということを見るものは感じるだろう。

派手な映画に飽き飽きしている人は、『リュミエール!』を見て、映画の過去と現在、そして未来に思いを馳せてみてはいかがだろうか。


不知火検校




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2018年11月16日

エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(1992)

今回課題本となった『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』の翻訳原本は、1990年に発表されたエルヴェ・ギベールの自伝的作品 A l’ami qui ne m’a pas sauvé la vie である。自らのエイズ患者としての体験、自分にエイズの最新の治療法を受けさせてやると約束していたのにそれを反故にした「友人」ビルの裏切り、やはり「友人」であったミシェル・フーコーのエイズによる死、イザベル・アジャーニの気まぐれな心変わりによって頓挫した映画の企画話などが主に語られている。これらのスキャンダル的要素と自らの病気の進行を詳細に書き記したドキュメンタリー的価値によって、本書は世界各国の言語に翻訳され一躍ギベールの名は知られるようになった。



エイズという言葉を初めて耳にしたのは、石橋楽器のポスターで日本でも有名になった宇宙人のような風貌のクラウス・ノミが、1983年に「エイズで真っ先に亡くなった有名人」として亡くなった時であったと記憶している。そして次の年1984年にミシェル・フーコーが亡くなった時も表立ってそうとは言われなかったがエイズによる死と囁かれていた。しかし1986年に公開された『汚れた血』で「愛の無いセックスで感染する病」という明らかにエイズに触発されたモチーフが描かれ、そしてそのモチーフに若かった私がロマンティシズムを感じていたことを鑑みるに、「エイズ」という言葉にはまだ物語が介在する余地があったのだと思う。

さて『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』では、映画製作を巡ってのアジャーニとのいざこざが大きく扱われている。若い頃よりギベールは映画監督になるという志望を一貫して持ち続けていたそうなので、アジャーニの裏切りは許し難いものであったのであろう。彼はすでにジャーナリストとして映画・写真に関する記事を書き、同時に写真家としても活動しており、ミニュイ社、ガリマール社を中心にコンスタントに文学作品を発表し続けてもいたが、本格的に彼が注目されたのはやはりこの作品によるところが大きい。その証拠に『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』の出版後、1990年3月に彼はベルナール・ピボが司会を務め、認められた作家だけが出演することのできる書評番組『アポストロフ』に出演することになるのだから*。

https://youtu.be/en9OWEvf_Cw

ギベールの作品はもともとどれも自伝的要素が強いようだが、この番組の中で彼が強調していたのは、『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』はエイズをテーマとした文学作品であるということである。フーコーが自分の死因について秘密にしていたにも関わらずそれを暴露したことを非難されていることに関しても、フーコーの死と苦しみは誰のものでもなく、自分は多くのエイズによる死の証人であり、「いまや、ぼくたちが友情のほかに共通の死の運命によって結ばれている」のだから、結局は自分自身の死がモチーフなのだと語っている。彼にとって体験は「フィクションを生みだすためのベース」であって、「書くという行為は悪魔祓いの試みと祈り」であり(*)、「書いてあることは全て真実であるが、同時に入念に構築されたロマン(小説)」なのである。

*スーザン・ソンタグは『エイズとその隠喩』の中で「病人にとって、書くこととは、想像力をかきたてることではなく、鎮めることだ」と述べている。

また彼は番組内で、この作品が自分を裏切った友人を「象徴的に」殺す道具なのだとも言っている。「針をもっていって、ビルが席を立ったすきに、傷つけた指を赤ワインのグラスのうえでぎゅっとしぼって」やればよかったのに、と友人のジュールに言わせている場面について、ガリマール社の校正係のマダムが、「ギベールさん、意地悪かもしれませんが、私だったらやってましたよ」と言っていたと、笑いながら語っているギベールを見ていると、彼がエイズで番組出演後、91年末に亡くなるのだという事実が不思議に思えてくる。

時間がない差し迫った状況の中での、かつて愛した、そして今も愛する友人たちとの「愛」の物語。少なくともエイズという病がそうした関係性を描かせたことは確かである。自分の「仲間」がエイズで次々と亡くなっていき、そして自分もまたこの病に侵されていく中で、助かるかもしれないという希望と絶望の間を描き出したこと、初めてエイズを文学的題材にしたという意義は大きい。ギベールは、次作『哀れみの処方箋』において、書くことを通じて、衰弱し朽ち果てていく肉体に美を見出していく。

ところで今回の読書会で、是枝裕和が映画監督デビューする前年の1994年に、平田豊さんというエイズ患者のドキュメンタリー『彼のいない八月が』を撮っていたことをExquiseさんに教えてもらった。作品の終わりの方で、病状が悪化し、目が見えなくなり、寝たきりで酸素吸入を受けながら、支援者の人に平田さんは言う。「もう来なくていい、もう来なくていいよ、恐ろしいから」「二日前にね、前の人がなくなったの、そいでその声が夜中に聞こえるの、その亡くなるまでの・・・怖かった・・・それでね、とても怖かった、全部聞こえるの・・・」「・・・あそこまでね、苦しまないで人が死ねないのか」

『彼のいない八月が』も、エイズという特殊性を離れて、すべての人の死という普遍性を獲得しているのだが、ただ『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』と異なり、映像はあまりに生々しすぎて、もはや物語を介在させる余地を奪ってしまうのではないだろうか。

ギベールは自らの肉体が衰えていく様を映像化(*)しているのだが、私たちはここから何を読み取るのだろう?

*例えば、『慎み、あるいは慎みのなさ』La Pudeur ou l’Impudeur (1991)



noisette




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2018年06月16日

異色の伝記映画『ザ・ダンサー』

伝記映画をつい見てしまうのはどうしてだろう。絵になる逸話がつまっている、取り上げられた人物がすこぶる魅力的、等あるけれど、知識のレベルで知っている栄光、栄華が追体験できるからかもしれない。

ただヒーロー、ヒロインが歌舞音曲の世界の人であると、栄光を可視化するのはなかなか難しい。スポーツ選手なら記録を達成する過程や、伝説の試合の再現でその人に対する世間の熱狂を無理なく説明することができる。しかし歌や踊りのすばらしさや衝撃は、観客のリアクションを描くことでしか表現できない。だから見ていてもやもやした気分に陥ることも少なくなかったりする。なぜそのパフォーマンスにそんなにまで感激するのか、自分の五感では納得できなかったからだ。



そんな高いハードルに挑む伝記映画が登場した。取り上げたのは19世紀末のパリでユニークなサーベンタイン・ダンスを披露し一世を風靡したアメリカ人女性、ロイ・フラー。残されたモノクロの映像や写真からはその凄さがわからない有名人でもある。個人的にはロートレックの絵でその名に馴染みはあるものの、彼が好んで描いた踊り子達と違って、彼女の何が絵描きのアンリさんの筆を取らせたのか謎だった。存在したのは明らかなのだがそれがどんなものかわからない、ジグソーパズルから欠け落ちたピースの穴のような存在。

この映画の作り手は、思い切った手に打って出た。興味深い枝葉(舞台照明に関係する化学薬品系発明を行ったりキュリー夫妻とも交流したリケ女の一面、ルーマニア王室との親密な交際など)はばっさり落とし、花形文化人との華麗な交遊もカット。一点だけに焦点を絞った。まずダンス・パフォーマンスありき。ヒロイン像は踊ることを巡るストーリーでのみ描けばよい。結果として、浮かび上がったのが己が信じる美に奉じるストイックで不器用な「アート女子」としてのロイ・フラーだ。

女優を夢見る山出しで変わり者のヤンキー・ガールは、舞台での失敗をヒントに誰も思いつかなかった「ダンス」を創作し、彼女の美をわかってくれる場を求めて盗んだ金で大西洋を渡る。このとき25才。パリの興行主の目から見ればとうが経ちすぎた新人芸人。しかもその出し物はこれをダンスと呼べるのかという代物だ。

真っ白なシーツから顔を出したような衣装に身を包み、腕に仕込んだ竹の棒で袖がずりおちないようしっかり固定し、色を変えてゆく投光器の光を全身に浴びながら音楽にあわせて旋回する。上下左右斜めと両腕を振り回し長い袖の長いドレープをはためかせ、ひたすらぐるぐるぐるぐる。踊りというより体操のようだ。尻込む回りをよそに、ロイは寝食を忘れ初演を目指しひたすら手直しにいそしむ。衣装の色を微妙に染め直し、体の動きを試行錯誤し、練習に励む。全ては、舞台の上で最高の効果を上げるため。私の思い描いた美しいヴィジョンを観客の前に現すため―。この成功一歩手前の場面が全篇の中で特にわくわくさせられるところだ。初舞台を終え、暑さと体力の消耗で衣装の襞に埋まるように倒れ込むロイの横顔は美しい。

名声と金を手にし、したいことができる身となったロイは、望みを次々かなえてゆく。稽古場を手に入れ、後のモダンダンスに通じるような自由な動きで舞う女性舞踊団を設立、彼女の考える美を共に探求する仲間を育てようとする。孤独に生きてきた彼女がとうとう手に入れた「私の居場所」だった。しかし、成功は激しい消耗と肉体の酷使が続くことを意味した。ステージをこなす度に腕も腰も、熱と強烈な光に曝される目も痛めつけられる。痛みをごまかすために氷の塊を抱き、黒眼鏡で過ごす生活を余儀なくされ、美の殿堂オペラ座からオファーが来たときには体の悲鳴は押し殺すことができないほど大きくなっていた。

そして満足に踊れなくなったロイと入れ替わるように、洗練された容姿とギミックなしのナチュラルなダンスを売り物にする踊る若いアメリカ人が登場し、世間の関心は新しいスターへ移って行く。その人、イサドラ・ダンカンは、ロイの庇護を受けていたダンサーだった。新しいスターを見守るかわいそうなヒロイン―伝記映画ではよくあるパターンはここでも描かれている。

が、それだけでおわらせないのがこの映画。最大の見せ場はなんといっても完全に再現されたロイ・フラーの舞台だ。闇の中から様々な色の光を浴びて浮かび上がる彼女の舞は、息を飲むほどに美しい。ゆらめくドレープの波はまさに変幻自在、CGの派手な人工ファンタジーに食傷した目もこれにはびっくり。当時の人が賞賛した通り、まさに「夢の花」なんである。100年以上前の観客と同じ興奮をわかちあい、本気でロイ・フラーに拍手すことができるなんて!まさに、映画ならではのモーメント。この数分間にだけでも大人一枚のお金を払う価値あり。

今回の再現が実現できたのは、ロイ・フラーがこの夢のひとときのからくりの一部を明確な文章にし、特許を取っていたからだ。裸足の舞姫イサドラ・ダンカンの踊りがモノクロの写真やフィルムでしか拝むことができず、何が人々を熱狂させたのかおぼつかないのと対称的だ。自分一代だけのものとして仕舞い込まず、後の世の人とも美の体験を分かち合おうとしたロイ・フラーのユニークさに敬服する。

全体にヨーロッパ調耽美趣味に流れ過ぎ、わけがわからなくなってしまうのがこの映画の泣き所。タフなダンス・パフォーマンスも込みで揺れ動くロイ・フラーを骨太に演じきったソーコ(綴りはSoko、本名ステファニー・ソコリンスキ。シンガーが本業)の存在なしには成立しえなかったのではないか。ギャスパー・ウリエル演じる没落貴族のねっちょりとした存在感も好き嫌いがわかれるところ。イサドラ・ダンカンを演じたリリー・ローズ・デップはご愛嬌という感じだ。

意外な拾い物は、駆け出しのころからロイを支えた女性、ガブリエルを演じたメラニー・ティエリー。演技もさることながら、当時の男前な女性の魅力を物腰やしぐさのレベルでも見せてくれる(煙草のくわえ方なぞかっこいい)。長いスカートとコルセットの時代の働く女の衣装を颯爽と着こなし、ファッションに関心のある向きも満足されるのでは。久しぶりにフランス女性の繊細な美しさを堪能した。

トレイラーはこちらで見れます。
https://youtu.be/D2Io9hEl7TA



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2018年05月28日

オリヴィエ・アサイヤス 『パーソナル・ショッパー』

パーソナル・ショッパーは公に認知された仕事ではない。服を買う暇がないほど忙しいセレブの代わりに服を買い付けるプライベートな仕事だ。パトロンには自分のセンスを買われたわけだが、公に評価されるわけではない。その服を自分で身に着け、注目を浴びるわけでもない。華やかな世界だけに不満も鬱積しそうなのは想像に難くない。その陰のある女性、モウリーンをアメリカの女優、クリステン・ステュアートが魅力的に演じている。



「この物語の舞台に、ファッション業界を選んだのは、この業界以上に物質主義的な世界はない…そこで私は、そこに取り込まれながら、そこから逃げ出そうとする人物に惹かれていきました。そして見えないものの中に、救いを何とか探し出す人間を描きたいと思いました。見えないものの中に…」

オリビエ・アサイヤス監督本人がこのように言っているが、主人公のモウリーンはその「見えないもの」との未知のコミュニケーションを模索する。死んだ双子の兄のルイスは生前、死んだ後にサインを送るとモウリーンに約束したが、それは内容よりも、どのような形で伝えるかという問題だった。モウリーンは兄からのサインを待ち続けているがゆえに、まんまとなりすまされる。ルイスは文字などという安易な形でサインを送るはずがないと気づくべきだった。スマートフォンの快楽とは何だろうか。それはすぐに情報が引き出せること、すぐに返事が返ってくることである。つまり欲望が満たされるスピードだ。モウリーンはいつ来るかもどんな形で来るかもわからないサインを待ち続けているがゆえに、なりすまし男の「即答性」の餌食になる。

「私たちはこのようなコミュニケーション方法の人質になっています。時にはコミュニケーション・ツールが私たちをコントロールさえする」とアヤイヤスは言い、「中間者こそが力を持つ。媒介作用こそがメッセージの性質を決定づけ、関係性が存在よりも優位に立つ」とメディオロジストのレジス・ドブレは言う。重要な指摘であり、忠告だ。

私たちは同時に、なりすまされてもわからない、どこからか届いたのかもわからないメッセージを真に受けてしまうような、寒々しい人間関係を生きていることを思い出す。また、どんな人間かほとんど知らない人間が、どんな意図で押しているかわからない「いいね!」によって幸福感を得ていることも。なりすましだらけの薄っぺらな舞台装置の化けの皮がはがれると、廃墟の中で亡霊に話しかけていることが暴かれてしまうような。私たちはむしろ、モウリーンとルイスの人間の限界を超えた運命的な絆=コミュニケーションに思いを馳せるべきなのだ。

あまり触れているレビューがないが、映画の中でヴィクトル・ユゴーの降霊術が引用されていることを軽視してはいけない。ユゴーは肉体が滅びても、魂は生き続けると信じ、亡命先のジャージー島(あの『レ・ミゼラブル』を完成させたのもこの島だ)の邸宅で当時流行っていた降霊術を使って、死んだ愛娘レオポルディーヌとの交信を試みた。いわゆるコックリさん方式で、テーブルの上にみんなで手を置き、机がカタカタなる回数を数えて、アルファベットに置き直した。降霊術が流行した背景には、19世紀に生まれた新しい技術、電信技術の普及が背景にあったと言われる。「情報が瞬時に遠方に伝わる」という衝撃的体験は、当時の人々にとっては本当に魔術のように思えたのだろう。

ユゴーの前に現れた霊は文字で交信することを拒否し、まさに死者との交信はモールス信号のような「音」で行われた。文字を操るしかない文学者たちも当時、電信技術に脅威を感じていたようで、ユゴーですら文字はあまりに日常的で安易な方法に思えたのだろう。アルファベットに置き換える必要があったとはいえ、音という直感的なものを媒介とすることに魅了されたのだ。一方、ケータイやスマートフォンの登場で、私たちは以前にもまして、文字を読み、文字を書くようになった。文字に回帰し、依存するようになった。そして毎日せっせと短くて深みのないメッセージを消費し続けている。

19世紀のフランスの交霊術の研究者、アラン・カルデックによると、現世において前世の記憶は凍結されているが、霊的な世界に行くと、これまで転世してきたすべての記憶を思い出す。つまり、霊は記憶情報のようなもので、ちょうど私たちがインターネットに接続して、情報の膨大なストックを呼び出すようなものだ。そのうち、前世の記憶と交流するように、他人の人生を経験できるガジェットが開発されるかもしれないが、今のところはせいぜい文字や画像や動画のやり取りができるだけだ。

それに一個人がインターネットで実際に活用できる情報はほんのわずかで、逆に失っているものの方が圧倒的に多いのかもしれない。常にスマートフォンのメッセージをのぞき込むモウリーンの姿は、彼女が邸宅の暗闇のなかでルイスのサインを待っている姿と重なる。それは一方的に見られる非対称な関係だ。死者は私たちを見ているが、私たちは死者が見えない。かすかな気配のようなものしかわからない。ちょうど、インターネットの向こう側で悪霊のような様々な悪意が私たちをハッキングしようと待ち構えているように。国家さえもこの回路を通して私たちを盗聴し、監視しようとしているのだから(共謀罪!)。

刑事に尋問されるモウリーンの姿は、監視社会では挙動不審者である自由もないことを教えてくれる。つねに言いがかりをつけられるので、一貫性のある行動をとりながら、アリバイ作りにいそしまなければならない。人に説明できるように交換価値に基づいて合理的に行動しなければならない。監視社会の真の恐ろしさは、人生が退屈なゼロサムゲームに貶められることだ。痴情のもつれによる殺人事件に巻き込まれたモーリンが刑事の前で話すことは、ことごとく胡散臭くなる。モウリーンにとって一貫性のある行動が、客観的に説明のつかない、極めて不可解な行動になる。霊感があって、死んだ双子の兄のサインを待っているという状況は、合理的に説明できるどころではなく、気狂い扱いされるだけだ。

最近、ハリウッド版が公開された「Ghost in the shell」のように、一方でスピリチュアルな世界はインターネットによってさほど違和感のない、むしろ親和性のあるものになってきている。死んだルイスは遍在している。インターネットのように、中東にもついてきて、モウリーンにサインを送り続ける。彼女もまたパーソナル・ショッパーという仮初めの仕事をこなしながら、都市を転々とする根無し草だ。またパリで英語を話す外国人でもあった。彼女を中東に呼び寄せたボーイフレンドもフリーランスのプログラマーのようだ。定職に就いて定住するよりも、インターネットを供給源にして、彷徨う霊魂のように生きる。

そして、私たちは最後に、モウリーンがルイスのサインを確認しながら、中東のしたたかな光に包まれる、希望に満ちた光景を目撃する。映像は何も説明せず、私たちに想像させるだけだが(なりすまし男からモウリーンを救ったのはルイスであることが示唆される)、ある最終な場所にたどりついた予感を確実に与えてくれる。それでも死を乗り越える交信は不可能だと誰が否定できるだろうか。ユングが言うように、神秘体験は神秘現象の存在を意味しないのだから。

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2018年04月24日

「モン・ロワ〜愛を巡るそれぞれの理由」

スキーでスピードを出し過ぎて転倒し、負傷した女性弁護士トニー(エマニュエル・ベルコ)が、リハビリに励みながら、愛したジョルジオ(ヴァンサン・カッセル)との過去について振り返る。トニーは治療の最初にカウンセリングも受け、見透かされるように、けがをしたときの心理状態について尋ねられる。ひざにまつわる言葉遊び。genou(ひざ) = je(私) + nous(私たち)…(私たちとは、私とあの男のことだ!)。またカウンセラーはひざについて暗示的な文章を読み上げる。

「ひざは諦めや譲歩と密接な関係にある。後ろにのみ屈折する関節だからである。ひざの痛みは現状を否定する心理と連動する。治療においても同じ心理的道筋をたどる」

実際、リハビリで傷が回復していく過程は、トニーがジョルジオとの過去を反芻しながら、心の整理をし、そうすることで心の傷が癒されていく過程でもある。



二人の出会いが新鮮に感じられたのは、セレブと法曹の世界という、対照的な世界の二人が出会ったからだ。セレブの世界は祝祭的で、性的にも放縦だ。ジョルジオは、自分のことを「ろくでなしの王様 roi des connards 」と呼び、交友関係が派手だが、人を喜ばせ、楽しませる術を知り尽くしている。しかしその分だけ女性関係も込み入っている。ジョルジオはトニーと付き合いながら、モデルの元カノ、アニエスと関係を断つことがことができない。アニエスとの関係を強引に認めさせられ、トニーはそれを納得しようとするが、棘のように喉元に突き刺さっている。

一方トニーは弁護士で、近代の社会制度の担い手にふさわしく、一対一の恋愛と、愛のある結婚と出産に価値を置いている。独占欲も強い。近代以前、恋愛はコントロールできない感情として社会制度の外側にあった。恋愛は既婚者同士の婚外関係にあった。つまり愛人関係にしか恋愛はなかった。フランスは現代においてもそういう恋愛のあり方を引き継いでいるのだろう。セレブの乱痴気騒ぎはそれ以前の乱交的な世界ですらある。ジョルジオはそういう世界の住人で、ジョルジオもトニーに激しく惹かれるが、以前の生活習慣が染みついている。

以前、ジュリー・デルピー監督の『恋人たちの2日間』のレビューで「フランス的性愛の外見的な緩さは、非倫理性を表さない。流動的な関係の中で、にもかかわらず揺らぐことのない「代替不可能なもの」「取替え不可能なもの」を倫理的に模索していると見られるからである」という社会学者の宮台真司の一節を引用したが、そうだとすれば、ジョルジオがフランス的性愛の求道者に見え、むしろトニーはそれに耐性がない。ジョルジオをダメ男と評するレビューが多いが、彼がそうなら、トニーはダメ女である。DV男の餌食になるような腐れ縁を断ち切れない女である。

いずれにせよ、二人の関係は、笑い転げるか、泣き叫ぶかのどちらかだ。まるで「心電図」のように浮き沈みが激しい。トニーは「平坦な関係」が欲しいと言っているが、ジョルジオが言うように、心電図が平坦になったら、それは死を意味する。そもそも、一か八かで憧れのジョルジョにちょっかいを出したのはトニーの方だ。男女関係の本質はふたりの次のやりとりの中の逆説に集約されている。

On quitte les gens pour la même raison. 男と女が別れるのは同じ理由だ。
Exactement ! その通りね。
Pour la même chose pour laquelle ils nous ont attiré en premier lieu. 初めは魅力的に見えていたことが、あとで別れの原因になる。(※1)

恋愛初期の全開のワクワク感は、それを独占できなくなったときの絶望と裏腹で、それを担保に与えられているかのようだ。人間の感情は不自由で、特に嫉妬という感情は致命的だ。そのような感情にどう対処し、未来に向かうのか。トニーは生真面目な人間なので、時間が解決してくれるのを待つしかない。ケガのリハビリに時間と忍耐が必要なように。チンパンジーは目の前の性行為にのみ嫉妬するが、人間は不在のものにも反応できる。嫉妬は人間に特徴的な感情で、人間は粘着質で、恨みがましいのだ。同時に人間は不在のものを表象する力がある。まさにこの作品はトニーの回想力によってできている。(※2)

最後のシーンがポイントだ(ネタバレ注意!)。息子のシンドバッドの通う学校で、親の務めを果たすために彼らは出会う。リハビリ後、初めての再会だ。ジョルジョの髪には白髪が混じり、しわも増えている。それをカメラは執拗に映し出す。出会って10年という設定なので、少なくともアラフォーに達している頃だろう。ジョルジオはバイクで学校にやってきて、最低限の務めを果たすとそそくさと帰ってしまう。学校は学歴のない人間には居心地が悪い。子育てする際には弁護士のような社会的地位が高い方が信用されるのだ。

ここで完全に逆転が起こっている。「私の王様」は急に貧相に見え始め、普通のおじさんになってしまった。ジョルジオとの関係は上手くいかなかったが、そのあいだに有名な事件を担当したり、トニーは弁護士として着実に地位を固めた。すでにジョルジオは嫉妬する側に回り、ほとんどストーカー状態だ。弁護士の立場を利用したのか、美しい息子の親権もしっかり手に入れている。だからと言って、ジョルジオを軽蔑したわけではない。彼女はいとおしげに彼を見つめている。これも恋愛のひとつの境地だ。

心電図のように振れの大きい恋愛を経て、彼女は成長し、以前の彼女ではもうない。美しさも深みを増している。海辺のリハビリ施設で、いろんな出自の若い男たちと楽しくやれるのも、気が若く、人間の幅が広がった証である。いわばジョルジオの世界を取り込んだのだ。

ところで、この映画の監督、マイウェンはリュック・ベッソンの『フィフス・エレメント』で異星人のオペラ歌手、ディーヴァ役を演じたことでも知られている。彼女は17歳でベッソンの子供を出産しているが、彼の方は『フィフス・エレメント』の発表の直後に、その主役であったミラ・ジョボヴィッチのとりこになってしまった。ベッソンに捨てられたマイウェインはうつ状態に陥った。過食症で25キロも太り、アルコールやドラッグにおぼれそうになったという。まさにトニーと似た状況に置かれていたわけだ。

フライヤーでこの作品を「『ベティブルー』から30年!」という強引な紹介の仕方をしていたが、プッツン女とそれに振り回されることに快感を覚える男の映画とは、似ても似つかないことを付け加えておく必要があるだろう。

※1『ふらんす』2017年4月号、対訳シナリオ(中条志穂)参照。 ※2 宮台真司『正義から享楽へ』、「LOVE【3D】」の章を参照。

ふらんす 2017年 04 月正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-

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2018年04月15日

『沈黙』の映画化は成功したか?―スコセッシが描く遠藤周作の世界―

マーティン・スコセッシと言えば、初期には『タクシー・ドライバー』(1976)や『レイジング・ブル』(1980)といった斬新な作品でハリウッドの話題を独占し、その後も『カジノ』(1995)や『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)といった大作を連発し、近年では『ディパーテッド』(2006)で遂にアカデミー監督賞を受賞、コッポラやスピルバーグと並ぶアメリカを代表する映画監督の地位を確立したとされている。その後も旺盛に新作を発表し続けている彼が遠藤周作の『沈黙』を映画化するという情報を得てから、どれほどの時間が過ぎただろうか。あまりにも時間がかかった為、「企画が流れたのでは?」と思った昨年半ばに「2017年公開決定」の知らせが届き、この作品に期待する者はかたずを飲んで公開日を待ちわびたに違いない。



他方、遠藤周作の『沈黙』(1966)と言うと、世界的に読まれているこのカトリック作家を代表する長編小説であり、彼自身の作品群の中では中期の思想――神の沈黙――を最も如実に示したものと専門家からも見なされている。その小説としての完成度から言っても現代日本文学の最高峰に位置するような作品を、「ハリウッドの映画監督が映画化して大丈夫なのか?」、と誰もが考えたに違いない。しかしながら、このスコセッシという監督が、そのキャリアの初期から宗教に対する深い関心(『ミーン・ストリート』、『キリスト最後の誘惑』など)を示してきたということを知る者ならば、この映画化は当然のことのように受け止められたであろう。

映画を観た者たちは、原作小説に対してスコセッシが示した真摯な姿勢に驚かされたのではないか。ほとんどの場面が原作通りに描かれており、付け加えられた場面や改変された場面はほぼないと言ってよい。それに加え、主人公ロドリゴを演じるアンドリュー・ガーフィールドはもちろんのこと、重要な役割を果たすフェレイラ神父に扮するリーアム・ニーソン、厳しい詮議を推し進める奉行井上筑後守を演じるイッセー尾形、通辞役の浅野忠信、そして物語の鍵を握るキチジローを演じる窪塚洋介に加え、信仰を持つ村人役の塚本晋也、ヨシ笈田、加瀬亮らに至るまで、完ぺきな俳優陣によって固められており、観る者は間違いなく圧倒されることになるだろう。

とりわけ、前半部分に登場するモキチ役の塚本晋也の演技は特筆に値する。塚本は、波打ち際に建てられた木製の巨大な十字架に括りつけられ、激しい波を何度も浴びるという拷問をかけられても信仰を捨てない村人を演じ切る。その姿には誰もが度肝を抜かれるのではないか。塚本と言えば、2015年に大岡昇平原作を映画化した『野火』においても監督を務めるばかりでなく主演もこなし、戦場において狂気に陥る兵士の心理を見事に表現したが、ここにおいても重要な役を文字通り「命がけ」で演じている(本人曰く、「死ぬかと思った」そうだが、スコセッシに対する宗教的な敬愛の念がこの熱演を可能にしたとのことである)。

あまりにも有名な小説なので、粗筋は最小限にとどめよう。敬虔な宣教師であったフェレイラが日本で棄教したという情報がポルトガルに伝わり、その真意を探るべく、ロドリゴらが日本に潜入。そこで苛烈な迫害の実態を目の当たりにし、信徒らの命と引き換えに、彼自身もフェレイラと同様に棄教をしなければならない状況に追い込まれる、という展開である。映画でのキリシタンに対する迫害の場面の凄まじさには誰もが戦慄させられるだろうが、これは遠藤の原作通りであり、実証的に調べ上げられたものだ。このようなことが現実に行われていたということを考えると、迫害も含めた宗教的非寛容にはまともな論理が通用しないことが明瞭に分かる。

優れた映画だが、二点、問題がある。まず、映画のクライマックスで主人公のロドリゴが踏み絵に足をかける場面だが、ここは評価が分かれるであろう。ロドリゴが自らの足の下にある、踏み絵に刻まれたキリストの顔を見つめると、どこからともなく声が聞こえてくるという、あの場面だ。原作では以下のようになっている。

「司祭は足をあげた。足に鈍い思い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭に向かって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」(遠藤周作『沈黙』、新潮文庫、平成23年、268頁)

ここは、原作が刊行された際にカトリック教会が最も問題視した部分だ。確かに、恐らく、最も解釈が分かれる部分であると同時に、映像化の最も困難な部分であろう。原作では、これを司祭の「心のなかの声」のように描いているように思われるが、スコセッシは明確に「別の何者かの声」としてオフ・ヴォイスで挿入している、という点が異なっている。このように、「神の声」を可聴なものとして表現することに対しては、神学的にはともかく、映画の演出としてはどうしても疑問が残ると言われても仕方がないであろう。

そして、もう一点。原作では少なくとも明確には示されていない主人公ロドリゴが亡くなった後の場面――映画の最後の場面――において、スコセッシが施した一つの仕掛けだ(これはこの映画の核心部分なのでここでは明かさない)。この部分はスコセッシ自身による解釈であり、これに関しても遠藤周作の研究者からは疑問の声が上がるかもしれない。しかし、カトリック教徒であるスコセッシとしては、このような形でしか納得できる終わり方を考えられなかったという点も理解できる。この部分は、この作品を観た者に投げかけられた最後の問いとも言える。

しかし、いずれにせよ、極めて真摯な姿勢でこの映画が作られたことは間違いがなく、恐らく日本文学が外国人の手で、これほど精緻に、一寸の隙もなく映画化されたことはかつてなかったと言っても過言ではないだろう。それはやはり、スコセッシのような日本文化に対する深い理解者がいたからこそ可能であったのかもしれない――彼が日本映画から極めて多くのことを学んだと述べていることは、いまや周知の事実だろう――。その意味では、『沈黙――サイレンス――』の誕生によって、世界映画史の一つの画期となる作品が誕生したと取り敢えずは言えるのではないだろうか。

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