2025年02月07日

アニー・エルノーの新しい挑戦  “Les Années Super-8”

アニー・エルノーのノーベル文学賞受賞のニュースはうれしい驚きではあったが、晴天の霹靂ではなかった。ここ数年封切られた映画を数本あげるだけでも顕著なように、女性たちをめぐる表現は劇的に変わった。 10年前の作品の描写はもはや明らかに古臭い。それは表現に携わる人々の考え方、世界の見方がスタンダードとみなされてきたものから自由になり、新しいメソッドを積極的に模索していることの表れだと感じる。そうしたクリエイター(その多くは女性だ)やそれを支持する人たちの根っこには、読み継がれてきたエルノーの著作があるのではないか。セリーヌ・シアマ監督がエルノーの本を読み始めたのは少女のころ。母に勧められたからだった。この受賞をきっかけにエルノーの作品はさらに新しい読者につながり、一人一人に語りかけてゆくだろう。エルノーが覚悟の上で書き上げた『事件』の切実さは、今もこれからも共有されてゆく。

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受賞とそれをめぐる国際的な大騒動が起こるずっと前に、エルノーは新たな一歩を踏み出している。82才にして息子デビッド・エルノー=ブリオと共にドキュメンタリー映画“Les Années Super-8”(The Super 8 Years)を製作、今年のカンヌ映画祭の監督週間にも参加した。共同監督としてもクレジットされているが、エルノー自らカメラは回してはいない。そもそもこの映画には新たに撮影された映像は含まれていない。別れた夫フィリップ・エルノーが1972 年から1981年までスーパー8カメラで撮り溜めたプライベートなエルノー家のホームムービーの映像をそのまま使用するという、型破りな作品なのである。

新興住宅地であったセルジー=ポントワーズ(ロメールの『友達の恋人』(1985)のロケ地でもあり、エルノーは今もそこに暮らしている)に引っ越してきてから夫と離婚し作家としてデビューするするまでの家族の記録を映画にするというプロジェクトが誕生したきっかけは、身内だけでの上映会だった。パパやおばあちゃん、亡くなったおじいちゃんが昔どんなだったか見てみたいという11歳を頭とする子供たちのリクエストにより、デビッドが半世紀ぶりに日の目を見た映像に母や兄の「音声解説」を合わせてみたところ、思いのほか興味深いものが出来上がった。被写体が有名作家であるということを抜きにしても、内輪受けを超えた普遍的な映像作品になりうるのではないか。きちんとした作品に仕上げたいという思いがそこで生まれたという。

パパの8ミリフィルムからドキュメンタリー映画を作らないかという息子からの提案に、エルノーは乗った。映像のためにテキストを書くということ自体、エルノーにとって新しい試みだった。これまでは日記や自分の記憶を掘り下げる形で執筆してきたが、スクリーンの中で動く過去と対峙しつつ書くことは初めての体験だ。また、彼女のテキストは細切れのホームムービーでしかない素材映像を補足する役割を担わなければならない。個人的にはよく知っていることであっても、観客のためにスクリーンに写るそれが何であるかというところから言葉で伝えなければならない。そんな立場で過去の映像を見ると、新たな発見があったという。

スクリーンに映し出された半世紀ほど前の自分ー作家になる野心を抱きつつ、仕事と子育てに追われている若い女ーとは、距離を置いて対面することができた。(「20年前、30年前であれば様々な感情に囚われ平静な気持ちで見ることはできなかったかもしれない」とインタビューでエルノーは語っている。)8ミリカメラを構えた夫が自分を、家族をどんな風に捉えていたかも見えてきた。関係の冷え込みとともに自分が登場しなくなってゆくのもさることながら、スクリーンに映し出された自分や家族の姿はこうあってほしいという無意識な夫の願望の現れではないか。そして被写体としての自分も家族も、夫の無言の要求に応えカメラの前で無意識のうちに演技をしていたのではないか。こうした客観的なの問いかけを含め映像からインスパイアされたあれこれをエルノーはテキストとして書き下ろし、自ら朗読、録音して1時間ほどのナレーションに仕上げた。母から届けられたそんな声のテキストに伴走する映像をデビッドは素材であるホームムービーから組み上げ、双方を合体させることでこの映画は誕生した。ロックダウン下という事情もあり、互いに干渉せずそれぞれ独立して作業する形となったが、意外なほど上手く噛み合ったという。

70年代〜80年代初頭のニュータウンに住むフランスの中産階級一家の日常が延々映し出されるだけで、エルノーの熱心なファンや研究者だけにしか楽しめないようにも思われる(あの「エルノーのお母さん」が動く姿が見られるのは確かにうれしい)。しかし、この映画には他に意外な見どころがある。アニーとフィリップは、家族旅行の目的地に思いがけないところを選んだ。モスクワ、アルバニアそしてチリ。社会主義国だからこそ実現しうるかもしれない新しい世界を目の当たりにできるのではないかと思ったのだろうか。「世界はよい方向に変化する」というポジティブなエネルギーとそれを信じる気持ちがあの時代にはあったからかもしれない、とエルノーは当時を振り返ってコメントしている。家族旅行の思い出は、当時の社会主義政権下の日常が映り込んだ資料映像となった。特にチリでのものは今となっては貴重な記録となった。一家の旅行から1年半後、アジェンデ政権は軍事クーデターにより崩壊し、社会主義国家チリは消滅する。暴力によって消し去られた変革への夢の断片が、若い家族の姿と共に記録されている。

冒頭、「この映画はサイレント・フィルムである」であるというステイトメントが示される。実際のところ全く無音ということはなく、音楽が添えられているし、ナレーターとしてテキストを読み上げるエルノーの声は映画を支える柱だ。教職にあったことを思い起こさせる真面目な雰囲気と、展開してゆく映像の内容から距離を置いた徹底した淡々さはこの映画の個性ともなっている。しかし、映画の素材である8ミリフィルムはそもそもサウンドレスであり、この映画で聞こえる音は全て後付けしたものになる。映像面を仕切ったデビッドはこの点を強く意識しあえて「聞こえる音は全て人為的に加えたもの」と暗に宣言した上で、野心的ななサウンドづくりを行っている。思いがけないところで鳴る雑音がそうだ。聞こえるはずのないドアの閉まる音がごく自然に聞こえてくる。通常の映画なら気にもとまらない当たり前の雑音を効果的に付け加えることで、50年程前の映像記録を一瞬にして現在とつなげる効果をもたらしている。

わかりやすいドキュメンタリーとは一線を画したこの野心的な映像作品が日本で上映されるかは不明だが、アニー・エルノーの作品の一つとして何らかの形で見る機会が与えられることを願うばかりである。

トレイラーをこちらで見ることができます(英語字幕つき)


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2023年12月24日

『燃ゆる女の肖像』

フランスの人文科学に親しんでいる者にとって、ギリシャ神話のオルフェウスとエウリディケの挿話はそれこそ耳タコで、『エッセ・クリティック』のバルトや『文学空間』のブランショが好んで論じていたものだ。文学の修士号をもつセリーヌ・シアマ監督はおそらくそうしたトピックに精通している。



本作が素晴らしいのは、この神話を、ジェンダーやら視線の相互性やらの見地から徹底的に問い直して、ストーリーに落とし込んでいるところ。それでいて18世紀の無名の女性画家たちの生きざまに思いを馳せた時代物でもあるのだ。題名で「燃ゆる」と訳された”en feu”は、「愛の炎」と同時に、女を苛む男社会の「地獄の業火」という意味でも理解すべきだろう。とにかく、映像美や作家性で味わう作品だと思ったら見当違いで、終盤の作り込まれた展開はただただ素晴らしく、某映画の蒼井優のごとく「お見事!」と叫んで倒れそうになる。

主題歌の歌詞はニーチェの詩のラテン語翻案のようで、超人思想を思わせるフレーズが、女性たちをエンパワーすべく滑り込んで来る辺りも洒落ていて、『ガールフッド』(『Bande de filles』の英題)を撮った監督のシスターフッド映画とまとめるだけでは言葉足らずだろう(舞台がブルターニュなのも意味深)。

ちなみに、本作のパンフレットは情報量が少なくてがっかりしたのだけど、とりわけ本作が、テーマの点でもいくつかのシーンの点でも『君の名前で僕を呼んで』へのアンサーになっていることには、せめて触れてほしかったかな。本作の監督シアマが脚本を手がけた3Dアニメ『ぼくの名前はズッキーニ』も配信サイトでレンタル可能なのでオススメ。


tachibana

posted by cyberbloom at 17:23 | パリ ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2023年10月01日

『シュヴァル 夢の宮殿をたてた郵便配達夫』 

子供の頃の裏読書、といえばチープな図鑑・事典類。世界の不思議、怪奇、妖怪、UFOとうさんくささ丸出しの見出し、荒い粒子の写真と挿絵、大げさな文章。でも、ページを開くたびにわくわく感は高まり、「ほんの少しはみ出すこと」の快感に酔いしれたものです。



そんな読書で出会ったのがシュヴァルの宮殿。フランスの文化遺産であるとは知る由もなく、謎めいた建物と、それをたった独りで建てたというガイジンのおっちゃんのつぶれたようなモノクロの写真は思いっきりあやしげで、イエティやらツタンカーメンの呪いといっしょに、頭の中の“Belileve It or Not”の箱にしまいこまれてしまったのでした。

月日は流れ、「あれ」が立派な芸術作品であり、アウトサイダー・アートの文脈からも語られるべきものらしい、とオトナな見方で捉え始めた今になって、この一冊に巡り会いました。実にありがたい。

まず、「何でこんなものを作る気になったのか?」という謎に答えてくれました。19世紀半ばのフランスに渦巻いたアフリカ・アジアへのあこがれが、字もろくにかけない田舎の郵便配達夫だったシュヴァルおじさんの心にまず火をつけたんですね。配達していた絵入り新聞や雑誌を彩っていた未知の国々についての詳細なイラストや、パリ万国博覧会で人々を驚かせたエキゾチックな展示についての絵はがきに、胸ときめかせていたとは。

宮殿ができるまでのいきさつも丁寧に教えてくれています。雨の日も風の日も、何もない田舎の道をてくてくてくてく歩いて郵便を届ける。そんなしんどくて色数の少ない日々の行き帰りに、シュヴァルおじさんが頭の中で思い描いたのは、華麗な彫刻で埋め尽くされたエキゾチックな宮殿でした。現実逃避の夢想で終わるはずだったのに、たまたま不思議な形状の石ころに蹴つまずいたおかげで、土地で取れる天然石や化石を使えば彫刻に負けない装飾が作れるんじゃないか、ピンときてからは一直線。配達するかたわら石を拾い集めることからスタートし、困惑する家族、白い目で見る隣人達をものともせず、建築について何の知識もないまま、時には人目を避けて夜闇の中で膨大な数の石とセメントを相手に30年以上こつこつ働いた結果だったんですね!年をくった今だからこそ、この事業がいかに大変であったか骨身にしみます。

一世紀後の世を生きる者の目で見てもやっぱりぶっとんでいるシュヴァルおじさんの人生を、平易なことばであえて淡々と語ってみせた専門家の先生の文章にもぐっときますが、添えられたイラストもいい働きをしています。輪郭を感じさせない点描っぽいタッチに押さえた色合いと、絵本にしては地味な印象。が、主張せずにおじさんにぴったり寄り添ってくれているおかげで、彼のくそ真面目な情熱がひしひしと伝わってくるのです。

絵本の中のおじさんの顔はどれも無愛想でがんこ。一見同じに見えますが、だからこそその裏に隠された、ただただ自分が心から「おもしろい」と思うことに邁進することの素直な喜びがじわじわ染みてきて、なんだかこちらもうれしくなったりします。

肝心の宮殿についてもたくさんの写真で紹介されており、謎の解消に大いに役立ちました。こどもの本としても立派なものですが、お子達をダシにして大人も読みたくなる一冊です。

宮殿ツアーの短い動画がここで見れます。

https://youtu.be/PORBy6-whWY


GOYAAKOD


□『シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢』(DVD)
 ☞2018年に映画化。ジャック・ガンブラン&レティシア・カスタ主演、ニルス・タヴェルニエ監督



posted by cyberbloom at 20:17 | パリ ☁ | Comment(0) | 書評−文学・芸術・思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2023年07月02日

「憎しみ」 LA HAINE (1995)

Jusqu'ici tout va bien... Jusqu'ici tout va bien...
L’important, c’est pas la chute, c’est l’attérrissage.



50階の建物の屋上から落ちている男が自分を安心させるために自分に語りかけている。「ここまでは大丈夫。重要なのは落ちていることではない、どう着地するかだ」。50階の高さから落ちているのだから、どう着地しようと助かりようがない。映画の冒頭でこの一節がライムのように語られる。これがパリの郊外に住む移民の若者の現実だとでも言うのだろうか。

何千台もの車が焼かれた2005年の秋の暴動はまだ記憶に新しい。警官に追いかけられた郊外の少年が変電所に逃げ込み、感電死した事件をきっかけにフランス全土に広がった。1992年に、パリの交番で18歳のザイール出身の若者が殴り殺されるという、同じような事件があり、マチュー・カソヴィッツが「憎しみ」を撮る強い動機になった。カソヴィッツは同じ1992年に起こったアメリカのロス暴動を念頭に置いていて、アメリカでは激しい抗議が起こったが、フランスでは何も起こらなかった。その埋め合わせを映画でやったのだと言っている。皮肉にも彼が「憎しみ」でカンヌ映画祭の最優秀監督賞を受賞して10年目にそれが起こった。そのあいだも、バンリュー(=郊外)の若者は、高失業率のままに放置され、ホスト国からよそ者として蔑視され、常に犯罪予備軍として警察の監視下に置かれ続けた。そういう状況下で、方向性のない憎しみを鬱積させる若者をヴァンサン・カッセルは見事に演じた。

しかし、五月革命(1968年)のデモがユートピア的なヴィジョンに基づいた反乱であったとすれば、2年前の暴動は何ら建設的な未来を主張することがなかった。暴動に加わった移民の若者たちにマイクを向けても、サルコジ(現大統領)の「くず racailles」発言が許せないと言うだけだった。組織化や連帯どころか、言語化すらままならない漠然としたルサンチマンに突き動かされて、彼らは自分たちの存在の承認を求めていた。また世界を驚かせたのは、そのような差別的事態が、労働者の権利が手厚く保護されていることで名高い国で起こったことだった。

破壊はむしろ彼ら自身に向けられていた。燃やされた車や学校は裕福な地域のものではなく彼ら自身が属する階層が苦労して手に入れたものだった。また、彼らは宗教的、民族的なコミュニティとしての特別な立場を主張したわけではない。フランス市民でありながら、そのように扱われていないことに対して、「俺たちを無視し続けることはできない」と知らせること。暴力が必要だったのはこの点においてのみだった。

印象的なシーンがある(動画)。主人公のヴィンツが鏡に映る自分に向かってガンをとばし、「オレに言ってんのか?」と自分に言いがかりをつける。攻撃性は明らかに自分自身に向けられている。自分の鏡像に拳銃を真似た指をつきつけ、トリガーをひく。消してしまいたいのは自分自身だ。つまり、自分たちを無視し、蔑む人間たちと同じ欲望を共有しているのだ。ヴィンツの攻撃性は彼の傲慢さを示すどころか、ヴィンツの情けなさ、惨めさ、無力さの裏返しだ。本来ヴィンツは小心な男で、でかいことをやるのは、いつも彼の想像の中だ。映画はそれをうまく見せている。

ヴィンツは結局、拾った拳銃をユベールに託したあと、私服警官の拳銃で撃たれて死ぬ。「憎しみの果てに」というよりは、思いがけない人間から偶発的な事故のような形で命を落とす。明快な憎しみと復讐のドラマを夢見ていたヴィンツは最後までそれに見放される。手に負えない憎しみの強度と、それに翻弄される人生の救いようのない軽さ。そのコントラストを強烈に印象付けてこの映画は終わる。



郊外というとイギリスなどでは一般的に中流階級のための快適な居住空間というイメージらしいが、フランスで郊外(=バンリュー banlieue )といった場合、移民のゲットーと化した高層の住宅団地を想起させる。フランスは移民を分離するのではなく、諸権利の獲得を通してホスト社会での平等を実現することを目指してきたが、バンリューの問題は移民を階級の問題として際立たせ、固定化しまった政策的な失敗と言えるだろう。

パリという国際的な観光都市が、凱旋門やルーブル美術館、エッフェル塔などのように歴史と密接に結びついたモニュメントに彩られているのは対照的に、バンリューには超ポストモダンというべき、つぎはぎの光景が広がる。「憎しみ」に次のようなシーンがある。団地のコンクリートの壁に、19世紀の詩人、ボードレールの肖像がグラフィック調に描かれている。それを背景にアラブ人のサイードがアメリカのコミック・ヒーロー、バットマンの話をしている。この組み合わせは、「解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会い」どころではない。

移民の若者たちの現実は世界の大都市にどこにでもあるようなスラム化した高層住宅団地だ。そして娯楽情報としてアクセスしやすいのは、バットマンが象徴するグローバルなポップカルチャーなのだろう。彼らのルーツ(イスラムやアフリカ)から来るものでもない、彼らのホスト国、フランスの伝統でもない、彼らの第3の文化的な選択だ。彼らの文化的なアイデンティティーの構成にも興味が惹かれる。彼らが支持するフランスのヒップホップのあり方もその一面を見せてくれるだろう。

憎しみをめぐってはいくつかの論争があった。その中で興味深いものに、「パリ原色図鑑」を撮ったジャンルイ・リシェによるカソヴィッツ批判がある。「カソヴィッツは自分が経験していない世界を利用している。バンリューの映画はそこに住んでいる人々によって作られるべきだ」と主張し、「憎しみ」はサイエンス・フィクションだと言い放った。リシェ自身はバンリューの出身だという理由で、自分の映画こそが真のバンリュー映画だと主張している。

それに対してカソヴィッツは「3ヶ月前からロケ地に入って地元の人々と交流した」と反論している。エドワード・サイードはこのような直接的な経験を「経験の所有」という言い方をしている。抑圧され、差別される立場を特権化し、優位性を主張するという価値の転倒である。ヒップホップがその典型的な例で、荒廃と暴力のレベルが高いほど、憧憬の的になるということが起こる(少なくともヒップホップの初期においては)。映画の評価やその後の反響において「憎しみ」はリシェの作品をはるかに凌いでいるのに、カソヴィッツが苦しい言い訳をしなければならないのは、よそ者であるという引け目の意識から逃れられないからだ。

ところで、リシェの主張する正当性とは何だろうか。バンリューという客観的な現実があり、バンリューの住人でなければ、その現実がわからないということだろうか。しかし、リシェは結局ある実体論的な固定物としてバンリューを捉え、自己言及的に自分と自分の作品を権威付けているだけである。それは何も変えないだろうし、それどころか共同体をマイナーなものとして固定し、維持させる力として働くだろう。バンリュー映画が存在するとすれば、誰もが関心を持てるように外に開かれるべきではないのか。カソヴィッツについて言えば、他者としてバンリューにどう向き合い、そこに何を読み取っているか。そしてそれをどのような形で見せているかが問題なのだ。

バンリューという現実があるとしても、それは個々の経験によって不断に設定され、積み上げられていくものだ。またバンリューの暴力をひとつの抵抗として美化すべきではないし、暴力が告発や顕揚としてのみ表現されるべきではない。

一昨年の秋の暴動が明らかにしたように、バンリューは共同体的な一枚岩ではないし、そこで起こった暴力も抵抗と連帯の結果では必ずしもなかった。しかし、そこにある問題は私たちが決して理解できないものではなく、私たちが抱えている問題と共通するものさえ見出せる。

3回目のエントリーを書いている途中で、またもや移民系の若者の暴動のニュースが舞い込んできた(※この記事は2007年11月に書いたもの)。暴動の発端は、少年2人の乗ったミニオートバイとパトカーが激突し、少年2人が死亡した事故をめぐる警察の対応だった。パリ郊外、ビリエルベルでは2晩続けて暴動が起こり、警察官120人が負傷し、看護学校など5つの建物と自動車63台が放火され、15人が逮捕されている。

2005年秋の内相時代に起こった暴動では、クズ racaille やゴロツキ voyou 発言をするなど、強硬姿勢をとったサルコジ大統領だが、今回は少年2人の遺族をエリゼ宮に招いて弔意を伝える予定と声明を出し、鎮静化に懸命のようだ。2005年秋の暴動も、窃盗容疑で警官に追われていた移民の若者2人が禁止標識のある変電所に逃げ込み、感電死したのがきっかけだったが、そのときは非常事態宣言にまで発展した。そしてカソヴィッツが「憎しみ」を撮ったきっかけになったのが、1992年にパリの交番で18歳のザイール出身の若者が殴り殺されるという事件だった。

つまりはバンリューの若者たちを社会参加させるための政策が後手に回り、彼らはもっぱら警察の監視の対象、つまりは犯罪予備軍としてクローズアップされる。そして時にはこうした警察の「やりすぎ」が起こる。



現代の憎しみはメディアコミュニケーションという回路を抜きにして語ることはできない。「憎しみ」はとりわけメディア報道のコラージュが効果的に使われている。ニュースは複数の出来事のあいだに関連性を作り出し、整合的で一貫性のある物語に纏め上げようとする。そしてディスクールの向こう側に真実があるかのように偽装する。バンリューのイメージもそうやって作られている。

パリ=中心−バンリュー=郊外という対立によってすべての価値が再配置され、またバンリューの真実がバンリューに関する各ニュースの背後に作り出される。実際はそれぞれ異質な出来事が存在しているだけで、それらの起源も相互の関連性も様々で、それぞれの出来事のあいだには断絶と矛盾があるはずである。しかし、ニュースはそういう側面にほとんど注意を払わない。

ニュースはテレビを通してバンリューに関する知を行き渡らせるが、バンリューの住人たちは言葉を奪われたままである。彼らには語りとしての生、経験としての生があるにもかかわらず、それを表現する手段が与えられていない。

メディアと関わるヴィンツの行動を分析してみよう。ヴィンツは警官の拳銃を拾い、それを隠し持っている。TVは警官に暴行を受けたアブデルの危篤状態とともに、暴動の際に警官が拳銃を一丁紛失したことを報じている。彼の住んでいる一帯でもそのうわさで持ちきりである。

ヴィンツはその拳銃を所有していることに興奮している。ヴィンツを復讐へと駆り立てているのは、自分だけがこの秘密を知っているという使命的な感情である。あたかも自分が主人公のスペクタクルが用意されているかのように思っている。しかし、復讐の動機は極めて曖昧である。警察の暴力で瀕死の重傷を負った仲間、アブデルのためだと言っているが、その男とは会ったこともない。その仲間意識の由来は同じバンリューの住人ということだけである。それが高じて、まさに憎しみの共同体が、メンバー全員が仲間のために武器をとって蜂起するような共同体が夢想される。それは警察への憎悪や敵対によって反照的に生まれ、強化されるものである。しかし、それが生まれえたとしても、その偶発的な連帯は脆弱で、組織としてコントロールされることは難しいだろう。そして現実はヴィンツが思っているほどドラマティックではない。

それでもヴィンツは拳銃を拾ったのだ。拳銃のフォルムが弾丸をひとつの方向に撃ち出すように、ヴィンツの憎しみに方向と表現を与える。拳銃はすでにひとつのメディアである。ヴィンツは拳銃を持って初めて憎しみを自覚した。依然として対象は曖昧であるが、胸のうちで混沌としていたもの、埋め合わせをしたいと思っていたものを自覚することができた。しかし、「昨夜の暴動は警察との戦争だった」とか「警察に復習してやる」と言っても、サイードとユベールはヴィンツの言うことを端から相手にしていない。戦争などという共同体の衝突ではなく、よくある小競り合いだと思っている。外からバンリューとしていっしょくたにされているが、バンリュー内部の利害関係も単純ではなく、外の世界との関わり方も様々である。

レ・アールのモザイク状のTVスクリーンに突如として、アブデルの顔が映り、彼の死亡が伝えられる。映画の中で最も衝撃的なシーンであり、ヴィンツの感情が最も高揚する瞬間である。しかし、彼の想像の共同体を可能にしているのは、TVというメディアである。彼はメディアを通して自分の状況を知るのであり、自分自身で情報を収集し、客観的に分析しているわけではない。自分がうわさの拳銃の持ち主であることや、アブデルの死を知ったのもTVを通してである。それは単純で受動的な回路である。

ヴィンツは例えばハッカーのようにメディアを撹乱したり、操作したりしない。武器は最初から奪われている。そこにも搾取がある。ヴィンツは拳銃を拾ったが、それは偶然に拾っただけなのだ。暴力は彼らの専売特許のように見えながら、実は彼らを取り囲み、監視している者たち、つまり装甲車を伴い、完全武装している者たちに独占されている。

またヴィンツはいつも偶然にTVを目にしている。彼はいつもTVの前にいて恒常的にその影響下にあるわけではない。断片的にしか見ていない。知人の家でTVに映った暴動のシーンを見て、無邪気に喜んだり、自分が映らなかったことを悔やんだりしている。しかし、おそらく普段からTVのニュースなど見ていないし、ホスト社会のニュースの言うことなど、端から信用していないはずである。普段は全く無関心だったニュースが激しい情動に駆り立てる装置に転じ、彼の行動に決定的な動機を与える。

ヴィンツのTVの見方は、一方的なTVの側からの意味づけやコンテクストの押し付けを無視して、自分の憎しみのストーリーためにそれらを組み替え、再構成している。メディアを信用しつつ、信用しないというアンビヴァレントな態度がベースにある。メディアに乗りながら、メディアの意図をずらし、自分のために流用する。

このようなメディアを通した想像力は差別される側にも差別する側にも同様に働く。TVを通して(例えば、サルコジのクズ発言に共鳴して)バンリューの若者に対して差別意識を燃やす人間もいるだろう。1回目のエントリーで、ヴィンツの攻撃性は自分自身に向けられ、自分を無視し、蔑む人間たちと同じ欲望を共有していると書いたが、これもメディアを通して可能になる回路だ。

もちろん私たちもこのようなメディアを介した憎しみの燃え上がらせ方を知っている。また私たちはニュースを通して、会ったこともない、全く知らない人間に対して、怒りや憎しみを燃やす。それは断片的な情報やニュースが造ったコンテクストに基づいたものにすぎないにもかかわらずである。それが世論や社会的正義として大きな影響力を持つことがよくある。


cyberbloom





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2022年09月29日

『彼らは生きていた They Shall Not Grow Old 』- カラーで蘇る戦場の若者のリアル

カラー化というものに弱い。モノクロ映像でも十分わかるじゃないか、何のための想像力だ!と思うのではある。しかし、カラーで復元された1920年代のパリの街の映像とか、戦争の足音が聞こえない頃の沖縄の市場の写真をなどを見せられると、向こうとこちらの距離がぐっと縮まったように感じてしまうのだ。なんて単純な。でも仕方がない。



そんな人間にとってうってつけのドキュメンタリー映画を、ピーター・ジャクソン監督が最先端の映像・音響技術を駆使して作り上げた。第一次世界大戦がテーマである。不勉強で映画やドラマ、文学の背景に登場する不吉な影くらいにしかこの戦争のことを捉えきれていなかったこともあり、思い切って映画館に足を運んでみた。

イギリス帝国戦争博物館からの依頼が、この映画の全ての始まりだった。博物館が所蔵する、第一次世界大戦中に撮影されたおびただしい数の未公開映像を活用してほしいージャクソン監督と製作チームは、眠っていた経年劣化の激しい映像を徹底的に処理することにした。

サイレント映画の時代の映像を思い浮かべてほしい。外枠を感じさせる小さいフレームの中で、人や物が実際とはかけ離れたスピードでちゃかちゃかと動く。モーターではなく手回しだった撮影カメラでは、このクオリティが精一杯。味わいはあるものの、そこにリアルを見出すのは今の人間にはとても難しい。この問題を製作チームは解決した。てんでバラバラな撮影速度で撮影されていた映像を現在の標準速度に統一、なめらかで自然な動きになるよう調節したのだ。

カラー化にも細心の注意を払った。場所が特定できる映像は、監督自ら撮影地へ足を運んで写真を取り、土の色などその土地ならではの色彩の再現に努めた。イギリス・ドイツ両軍の軍服の細かな飾りといった細部にも、本物の色に合わせてカラー化されている。

更に、当時の技術ではできなかった「音」を再現した。炸裂する砲弾、腹に応える地雷の爆発音といった戦場の音を現場で体感する音量で加えただけではない。可能な部分では、兵士がなにをしゃべっていたかを再現した。読唇術のプロに読み取ってもらった言葉を声優にアフレコさせた。

結果はお見事の一言につきる。遠い昔の「記録」でしかなかったフィルムが、ヴィヴィッドでリアルな映像として蘇ったのだから。スクリーンに映る100年前の人々と、観ている私たちとの壁がさあっと取り払われた感じだ。あそこに写っている彼らは、そこらへんにいる兄ちゃんたちとなんら変わりはない。今と同じような軽口をたたき、笑っている。

この映像をどう活かすか。監督が選んだのは、ナレーションを使わずあの場所にいた兵士たちに語らせることだった。BBCが所有していた600時間以上ある200人もの元兵士のインタビューからより抜いて編集、復元された映像に兵士たちの生の声を当てた。

インタビューを始めた時期が影響しているのだろうか、証言者の戦争当時の年齢はおしなべて若い。主に20代、中には16歳、17歳といったティーンエイジャーも含まれる。おかげで、観る側はプロの軍人でなく、世間の熱に浮かされるまま志願し、にわか作りの兵隊としてフランスへ送られ、有名な西部戦線の生き残りとなったイギリスの若者たちと同じ目線で、開戦から終戦後までを経験することになる。

戦争とは、毎日が歴史に残る戦いではないー当たり前のことだけれど。 お終いが見通せない長大な溝のような塹壕の中に潜み、無人地帯(No Man’s Land、平たく言えば標的になるので誰も生存できない場所)を挟んで敵のドイツ軍と睨みあう日常が延々と続く。1日の時間割も決まっている。この戦争で初めて投入された新兵器ー毒ガス、戦車、マシンガン等といったものにさらされ、目を見張り右往左往する状況もある。敵のスナイパーに撃たれ不意打ちの死を迎える危険も常にある。しかし、敵が何かを仕掛け緊張が走る状況がなければ、「野郎同士でキャンプに来たような気分」で過ごすこともある。

そんな兵士達の日常を、衣食レベルの細々したことを積み上げる形でこの映画は教えてくれる。素材となった映像の多くは「戦場で兵隊さんは元気にしています」ということを伝えるために撮られた、ニュース映画用の素材だったのだろう。塹壕で、非番の兵舎で、カメラを向けられとびきりの笑顔で応える兵士たちが登場する。ビールの配給に並ぶ長蛇の列、軍服のノミを潰し、ふざけあう姿ーしかしフィルムに残された陽気な兵隊さんたちの「本当のところ」を、元兵士たちは100年後に観る私たちに教えてくれる。水みたいに薄かったビールの味を、ふざけずにはおられなかった複雑な心中を。単なる記録映像はこの言葉によって別の意味やニュアンスを帯び、兵隊たちと観客はいつのまにか近しい間柄になってゆく。

戦局は膠着したまま季節は流れ、塹壕の中の環境はますます劣悪となり、敵の攻撃以外の、この戦場でしかありえない原因で命を落とすものもたくさん出るようになる。まだ車が貴重な中運搬の主な担い手だった「相棒」の馬たちも、使い捨てられどんどん死んでゆく。

そして、塹壕でのルーティーンの日々もついに終わる。効果がないに等しい敵陣への突撃を命ぜられたのだ。あれほどふんだんにあった映像は途絶え(丸腰でカメラを回すカメラマンなぞ100%生き延びられない状況だからだ)、当時の新聞や雑誌を飾った勇ましい突撃のイラストがスクリーンに登場する。元兵士の肉声と、効果音として加えられた大音量の発射音・破裂音が、そこで何が起こったかをまざまざと伝えてくれる。敵・味方の砲弾が入り混じって飛び交い、前方から襲ってくる「鉄の暴風雨」の最中を、銃剣を装着したライフルだけ持ってひたすら敵陣を目指したこと、被弾した瞬間の感触、前後左右の仲間たちがバタバタと倒れる中、自分にあったはずの「人間らしさ」がはげ落ちて行くこと。まだろくに思い出もない身では、死の前に見るという人生の走馬灯なんて流れるわけがないー言葉のあまりの生々しさに、ただ愕然とする。そして、スクリーンをにぎにぎしく飾る勇敢な兵隊さんの姿とのあまりの落差にクラクラする。なぜ彼らはこんな目にあわされなければならなかったのか?

何とか死をかわしてドイツ軍の塹壕にたどり着いた兵士たちが、敵相手にどんな行動に出たかはご想像にお任せする。しかしそんな中にも、 自分たちがよく知っている人達と敵兵が変わらないことを見出す兵隊もいる。やり過ぎたと我に返って、自分が襲った瀕死の敵兵に水を含ませる。ありがとう、という一言を残してほんの坊やの兵は息を引き取るのだ。

4年の月日が流れ戦場にいるだれもがうんざりしていた頃、戦争が終わる。戦争しかしてこなかった若者を故郷で待っていたのは、戦争のことなど忘れてしまいたい世間の無関心だった。戦場での体験に耳を貸すものはなく、職歴のない厄介者扱いされ生活に追われた元兵士たちは戦場での記憶を封印することになる。

取り放題が許されない中戦場を撮影したカメラマン達が、レンズを向けフィルムに残した光景(お蔵入り覚悟で撮られた凄惨なショットもあった)。老人となってからようやく戦場での経験とあの日の感情を吐露することができた元兵士たちの、録音テープに記録された言葉。仕舞いこまれていた、あの戦争を生きた人々の思いが100年経って解き放たれ、なにが起こったかを知りたい人々のもとに届いたのだ。第一次世界大戦という括りだけではなく、戦争というものがどんなものであるかをも感覚レベルで伝える形で。封を切るだけでなく今の観客がより明確に受け止められるよう腐心した、ピーター・ジャクソンとその最新鋭の技術を操るスタッフたちの地道な仕事に心から敬意を評したい。

また、戦場に行くのは若者であるという当たり前の事実を突きつけられもした。生きのびて証言した元兵士たちにとって、この忌まわしい数年間は青春の日々でもあったのだ。懐かしくもおぞましい思い出として青春時代を抱えてゆかなければいけなかった者たちもいれば、その青春すら断ち切られ、原題の示す通り年を取ることを許されなかった者たちもいる。戦争は若者をこんな目に合わせるのだということを、若くない側の一人として、あらためて胸に刻んだ。

トレイラーはこちらで。
https://youtu.be/IrabKK9Bhds

体調が良くない時に観るのはお勧めできません。しかし、見れるとき見ときヤ!な一本です。

全編カラーではなく途中でモノクロからカラーに切り替わるのですが、その切り替わりの効果の嫌ったらしさも必見です。映画『オズの魔法使い』の真逆を狙ったようですね。



GOYYAKOD
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2022年09月24日

『ポムポムプリンの「パンセ」』

古典は読みにくい。言葉遣いが古いし、いいことを言っていても、言い方が難しかったりする。でも、古典とはいろんな読み方に耐える書物である、ともよく言われる。確かに、本当に大事なことは、原稿に番号を振って読んでいる学者だけに理解できるものではないはずだ。古典は誰にでも開かられている。だから、2016年度のサンリオ・キャラクター人気投票で第1位に輝いたポムポムプリンが、フランスの思想家パスカルの名作『パンセ』を読んでみても、かまわない。なので、読んでみたら、こうなりました、というのが本書である。



一応解説しておくと、パスカルの基本的な態度は、神がいなければ、人間の生きる意味を保証するものがなくなる、だから、神を信じるべきだ、というもので、その反証として「神なき人間の惨めさ」を書き留めた。『パンセ』には次のような一節がある。

「人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした。」

これは前田陽一・由木康によるスタンダードな訳文(中公文庫版)で、ポイントを落として、本書にも転載されている。ここは大事なところで、パスカルの「原文」もできれば読んでね、という編集サイドの謙虚な気持ちが表れている。さて、ポムポムプリンは、パスカルのこの言葉をこう解釈している。

「耐えられないときは逃げたっていい。
大きな悲しみに直面すると、無力感にさいなまれる。乗り越えようとするほど、より悲しみが深くなってしまう。無理に向き合おうとせず、毎日を過ごそう。嫌なことを考え過ぎなくてもいいんだよ。」

な、なんとポジティブな。神様抜きでは癒せないものを無視することで幸福になろうとする人間を批判するのではなく、惨めになる前に逃げようね、と優しく諭してくれるとは。さすがサンリオきっての癒し系だ。

「クレオパトラの鼻。それがもっと短かったなら、大地の全表面は変わっていたことだろう。」(パスカル)
→「小さな行動が、未来を変える。」(ポムポムプリン)

「われわれが他人から愛される値うちがあると思うのは誤りであり、それを望むのは不正である。」(パスカル)
→「愛されたいから、愛してみる。」(ポムポムプリン)

ひょっとして意味が反対では? などと批判するのは、野暮というものだろう。どんな言葉もポジティブにしか理解できない人もいるのだ。サンリオのキャラクターたちは、ほかにもこんなものを読んでいる。

 『ハローキティのニーチェ』
 『キキ&ララの「幸福論」』
 『マイメロディの「論語」』
 『けろけろけろっぴの「徒然草」』
 『みんなのたあ坊の「菜根譚」』
 『シナモロールの「エチカ」』
 『バッドばつ丸の「君主論」』

異なる文脈に置かれると、言葉の意味はいくらでも変化する、とかつてボルヘスも書いたことがあったが、彼の短篇「『ドン・キホーテの著者、ピエール・メナール」は、結局は作者名を入れ替えただけの知的遊戯にすぎない。このサンリオ古典シリーズは、もっと過激だ。実際、キティちゃんがニーチェの超人思想について考えている図を想像するだけで、かつてないアートを感じてしまう。

あらゆる古典が、ひたすらポジティブ・メッセージの書へと変換されてしまうのでは、という危惧もなくはない。それは、現代日本に底流する問題である。今後は、思想誌としての『いちご新聞』から目が離せない。


posted by bird dog


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2021年09月09日

『汚れた血』Mauvais Sang

第6回となるFBN読書会は、いつもと趣向を変え、我々の世代のフランス好きにとって伝説ともいえる『汚れた血』を課題映画としました!夏めいた日差しが降り注ぐ中、阪急六甲駅に集合したのち、80年代洋楽を代表する名前の一人、スティングの声が漂う静かな空間(六甲茶房店主(み)さんの気遣いでしょうか)で、『汚れた血』を皮切りに、映画についてのおしゃべりを存分に楽しみました。

1986年に発表されたレオス・カラックスの『汚れた血』は、当時のフランス大好き人間たちに衝撃を与え、80年代から90年代にかけて圧倒的な人気を誇ったリセエンヌ・ファッション誌オリーブを愛読されていた Exquise さんをして「新しいフランス映画に開眼させてくれた作品のひとつ」「当時の私にとってはいろんな意味でバイブルのような存在」と言わしめています。次の作品『ポン・ヌフの恋人たち』(1991)の公開後には、パリのポン・ヌフ橋の袂で憂鬱そうに佇む日本人が続出しました。

私たちのおしゃべりがきっかけとなって、2019年に改めて観ても古さを感じさせなかった『汚れた血』を(もう)一度観てみようと思われたら幸いです!



Nevers (以下 Ne):初めて見ましたが大変楽しめました(先に見たカラックス監督の作品『ポーラ・X』の沼のような暗さが後を引いてこれまで見るのをためらっていました)。かっこよすぎ、です。若干26歳の青年が、詩的なだけでなくエンターテイメントの要素もしっかり入れ込み、ストーリーもセリフも背景も音楽も練り上げた映画を作り上げたのはやはりすごいこと。全編を貫いている疾走感に魅了されました。
Noisette(以下No):カラックス監督と同世代です。今回観返していて、望月峯太郎の漫画作品『バタ足金魚』を思い出しました。どちらも同じ頃の作品なのですが、今では顰蹙を買いかねない「好きだー!!」という純な衝動が社会に溢れていた事実に驚きます。公開時から年月が経って、ぐるり360度回って戻ってきた今だからこそ、作品の青さもひっくるめ更に楽しめたと同時に、あのころ自分がどれだけロマンティシズムに浸っていたかということ、そして今は「愛」がもはや無条件に信じられない時代になってしまったのだということに気づき愕然としました。たとえその行為に愛があったとしても、今だったらストーカーになってしまいますからね。
Exquise(以下Ex):公開当時は大変影響を受けました。意味深な台詞からアンナの着ている赤いカーディガンまで(似たものがないか探しました)。今見ると作り込んだ台詞からして随分とロマンティックな映画だなという印象を持ちました。過去の映画へのオマージュが全編にちりばめられているのもよくわかります。親の世代の視点から「若者の映画」を楽しみました。
Goyaakod(以下Go):色遣いの美しさが印象的でした。この映画の人や物の捉え方、撮り方に大いに影響を受け、今仕事をしている映像関係者は多数いるのでは。この映画は地べたを離れた「夢」のようなもの。「夢」に乗れるかどうかで映画への評価、思いが変わってくるのではないでしょうか(エイズとの関連性を言われる架空の感染症“STBO”も、それを巡る犯罪も所詮「書き割り」に過ぎない)。また、これだけ時が経っても今なお「青春のエネルギー」を発している映画でもあると思います。

*父の世代と子供の世代*
No: 今回見て、父と子の世代の対立を感じました。製薬会社でのSTBOの血清奪取後姿を消したアレックスに対し、マルクがひどい悪態をついてましたが、アンナはそれを諌めますね。アレックスはそんな人間じゃないと。しかしアンナがなぜおじさんのマルクに惹かれるのかちょっとわからない。
Ne: アレックスの疾走も印象的でしたが、アンナも走りますよね。最後の飛行場でのシーンで。血で顔を汚して。それをマルクが走って追いかける。結局途中でやめてしまうわけですが。心臓も悪いのに。「走るのやめたほうがいいって」と見ながら思ってしまいました。
No: この時マルクを演じたミシェル・ピコリは61才。それなら今は…。
Ex: 93 才ですね。
Ex: 映画の設定ではアンナは30才ですが、演じたビノシュの年齢は22才だったんです。
No: アレックスとアンナの関係は、コクトーの『恐るべき子供たち』の姉と弟をちょっと彷彿させるところがありますね。
Go: シェービングクリームまみれになってのお戯れのシーンも、男と女というより姉弟同士で遊んでいるようなところがある。
No: アレックスって、やたらタバコをふかす一方で牛乳も飲むんですよ。ワインじゃなく。ちょっとお子様的ですね。やはり学生時代ハマった『時計じかけのオレンジ』(1971)を思い出しました。

*アレックスの存在感*
Ne: アレックスはいわゆるボー・ギャルソンではないですね。昔読み聞かせた絵本の中にでてきた「あまのじゃく」にそっくりだなと思いました。“小鬼”系ですね(笑)。
(一同爆笑)
Go: いやーわかります。まさしくその通り。
Ne: しかしリーズのようなぴかぴかした女の子をガールフレンドにして、追いかけ回されるわけです。アンナとも絡むし。
Ex: カラックスは自分と背格好が似通った役者を探して、ドニ・ラヴァンを見出したそうです。
Go: カラックスの本名は”Alex Oscar”なんだそう。アメリカのレビューではこの映画のアレックスはカラックスの分身だと述べていました
No: トリュフォーにとってのアントワーヌ・ドワネルのような関係でしょうか?
Ex: トリュフォーと少年から青年まで一貫してドワネルを演じたジャン・ピエール・レオーとはプライベートでも親密でしたけど、カラックスとラヴァンは違うそうです。ご飯を一緒に食べたことが一度もないとか。
Ne: 分身と一緒にいると落ち着かないんじゃないんですか。

*過去の映画へのオマージュ*
Go: アメリカのレビューによると、この映画には過去の名作映画へのほのめかし、言及がたくさんあるとのことでした。例えば犯罪者の情婦であるアンナのヘアスタイル。あの唐突なボブは、ルイーズ・ブルックスが演じたルルのスタイルであると。
Ex: その間にゴダールが挟まっていますね。アンナ・カリーナのヘアスタイル。役名もまんまアンナですし。スクリーン上に表示される文字の使い方なんかもゴダールですね。
Go: セルジュ・レジアニが飛行場で突然現れたのにびっくりしましたが、レジア二といえばジャン=ピエール・メルヴィルのフィルム・ノワールのヒーローとくるわけです。
Ex: 何故か犬を抱いて(笑)。
No: ミシェル・ピコリの起用もオマージュと関係がある?
Ex: ゴダールの『軽蔑』に主演していますね。ブリジット・バルドーにひたすら嫌われるという役で。ビノシュもデルピーも子役としてゴダールの映画に出演しています。
Ne: マルクたちと絡む犯罪グループの親玉でアメリカ人と呼ばれる女ボスも、いかにも犯罪映画にでてきそうなキャラクターでしたね。
Ex: カラックス作品以外にはこれといった作品に出ていない女優さんのようですが。フランス語を喋る時のアクセントの感じが、『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグを彷彿とさせます。
Ne: あのシーンはこの映画のこことリンクしている、と観た人同士であれこれ話がはずむだろうことを計算にいれて作っているんでしょうね。
Ex: 後日ジュリー・デルピーが語っていたんですけれど、演出方法や撮り方についてカラックスに意見すると、「あの監督はこの手法でやった。この監督はこうやっていた」と言うばかりだったそうです。自分の意見、というのは聞かせてもらえなかったと。そういう先人の仕事への傾倒ぶりが、この作品以後のカラックスの意外に地味なフィルモグラフィの理由の一つなのかもしれません。過去の作家たちの作品に囚われたまま、前へ進めないというか。次の作品となった『ポンヌフの恋人』も今回一緒に見返したのですが、本作のお金のかかった焼き直し?という印象を持ちました。最も新しい作品である『ホーリー・モーターズ』はこれまでの作品とはかなり異なる奇抜な内容ですが、過去の映画作品への憧憬という根本は変わっていないように思います。

*疾走するアレックス*
Ne: アレックスがデビッド・ボウイの”Modern Love”が流れる中、全身ではじけてパリの通りを疾走するシーンは特に好きでした。あのシーンで、主人公をドニ・ラヴァンが演じることに納得がいきました。
No: 今夜はマルクが寝室で待っている2階には行かないで、とアンナに懇願したら聞き入れられて、すっかりはしゃいじゃって。いかにも男の子な直情的な行動ですよね。
Go: アメリカのレビューには「『雨に唄えば』の雨に濡れるのも構わず通りで歌い踊るジーン・ケリーの場面に比肩する」というのがありましたけど、それはちょっと褒め過ぎかなと。
Ex: この場面には公開当時からちょっと抵抗があるんです。ロック少女の屈折といいますか(笑)。この映画が公開される前、デビッド・ボウイはナイル・ロジャースと組んで“Let’s Dance”というダンスチューンをリリース。世界的な大ヒットになります。それまで奇抜な衣装に化粧は当たり前だったのに、プロモーション・ビデオではリーゼント風にきめたヘアスタイルにイタリアのスーツ姿で小綺麗に登場しちゃって。前作の“Scary Monsters”が彼のキャリアの中でもとりわけ難解かつ繊細な作品だったのにどうしてこう来るわけ!こんなの歌謡曲じゃない!とファンとしては憤慨しました。だからこういうボウイの曲の使い方がベタに思えてちょっと許せなかった。
No: 『戦場のメリークリスマス』への出演も、このポップなスターとして大人気だったころだったでしょうか。
Go: 玖保キリコのマンガ『シニカル・ヒステリー・アワー』を思い出しました。小学生のツネコちゃんとキリコちゃんが、怪我して動けない親戚のお姉さんからチケットもらって”Let’s Dance”を引っさげて来日したボウイのコンサートに行く話。周りの客の大盛り上がりをよそに途中で持参のおにぎり食べたりして。
Ex: そのコンサートツアー、行ったんです。高校生でしたが。はるか遠くの豆粒サイズのボウイを眺めただけでしたけれども。校則で「夜間の外出は親同伴でなければならない」というのがありまして、友人のお父さんに会場まで一緒に来てもらいました。コンサート会場の側で終わるのを待っててくださって。
Go: いいお話。
Ex: でもクラシックの使い方に関しては、カラックスはいいセンスをしていると思います。例えば、プロコフィエフのバレエ音楽『ロミオとジュリエット』からの選曲。今ではソフトバンクのCMのおかげですっかり有名になりましたが、当時はバレエファンかかなりクラシックに明るい人しか知らなかったと思います。CMで使われるまで私的には、あのメロディーは『汚れた血』の音楽、とカテゴライズされていました。

*タイトルを巡って*
Go: フランス語の原題は”Mauvais Sang”。邦題は『汚れた血』、アメリカでは”Bad Blood”と訳されていますが。
Ex: このタイトルはアルチュール・ランボーの詩から引かれています。日本語にすれば、悪い血筋、という感じでしょうか。
Go: アメリカのDVDのカバーやポスターのイラストが日本のそれ(頰を血で汚し走るアンナの姿)とは違い、懐かしの犯罪映画風なのが納得いきました。
Ex: 父から子へと流れる犯罪者の血脈。でもそれだけでもなさそうです。映画に出てくる感染症、STBOのことも意識してのネーミングではないでしょうか。
No: ランボーといえば、商売をしにアフリカへ行きましたね。「自分の生活を立て直したい」と言って。「金を手に入れたら、人生をやりなおしたい」と語っていたアレックスに通じるところがありますね。話は飛びますが、この映画のDVDを某レンタルショップで借りたんですが、「ヨ」のコーナーを探しても探してもなくて。もしやと思って「ケ」のコーナーを見たらありました。たしかに、ケガレタとも読める。この映画を見たことないスタッフなら置きかねないですね。

*パラシュート降下のシーン*
Go: 本筋に関係なく唐突に挟み込まれたアンナとアレックスのパラシュート降下のシーン。こういうシーンをどーんとやってしまうところ、実に詩的な映画だと思います。
Ne: あの場面はよかったですね。飛び降りるところを横からだけでなく、上空からも撮影してましたね。
No: メイキング映像を見たら、俳優の乗る飛行機の近くに気球を飛ばして撮影してました。
Ne: 好ましく思う女性が失神したところを男性が助けようとする。よくあるシチュエーションで、男性が騎士でも王子でも誰であってもバナルな感じしかしないんですが、これを空中でやられてしまうとなかなかぐっときますね。

こんな風に話は尽きず、ロメールの映画にも話は及び、あっという間に過ぎた午後のひとときでした。




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2021年08月21日

『水曜日のアニメが待ち遠しい』 – アニメと移民の意外な関係

よくあるアニメ本かと思っていたが、読んでみたら意外に骨のある内容だった。特に面白かったのは、フランスに日本のアニメが浸透していった時期と、フランスにもともと住む中間層と他国からやってきた移民を混ぜ合わせるような都市政策が一種の社会実験としてフランスで進められていた時期が重なり合っていたという、日本からは見えにくい事実だ。



著者のトリスタン・ブルネは日本のアニメのことを思い出すと、当時住んでいたトルシーという郊外の町(Torcy パリの東約30キロ、RER A線上にある)の風景が一緒に思い出されるという。トルシーは1970年代に造られた、パリに働きに行く人々のベッドタウンで、『未来世紀ブラジル』のロケ地になったほど人工的に作りこまれたポスモダンな外観を持っていた。トルシーにはフランスとは文化圏が大きく異なるアフリカ系と東南アジア系の移民が多く、文化的な軋轢を生みやすかった。この軋轢が日本のサブカルチャーの受容を考える上で重要で、それが文化の異なる子供たちの軋轢を緩和する重要な媒介になっていた、という指摘は目からウロコ だった。

しかし、トルシーの社会実験は次第に行き詰っていった。プチブルたちは犯罪率が高いという差別的な意識によって、その町を離れていき、移民系の人々だけが残された。トルシーは街の未来的な佇まいとは裏腹に、経済的に貧しくなっていった。町は左翼的な政策によって造られたにもかかわらず、左翼的な人間に限って自分の子供たちを地元の公立ではなく私立の学校に通わせていたと、著者はその偽善性を暴いている。

トルシーの話を読んで思い出したのが、マチュー・カソヴィッツの『憎しみ』(1995年)のワンシーンだ。団地のコンクリートの壁に、19世紀の詩人、ボードレールの肖像がグラフィック調に描かれていて、それを背景にアラブ系の青年サイードがアメリカのコミック・ヒーロー、バットマンの話をしている。この組み合わせは「解剖台の上のミシンとこうもり傘の出会い」どころではない。パリという国際的な観光都市が、凱旋門やエッフェル塔などのように、歴史と密接に結びついたモニュメントに彩られているのは対照的に、移民の若者たちの現実は世界の大都市にどこにでもあるようなスラム化した高層住宅団地で、娯楽としてアクセスしやすいのは、バットマンが象徴するグローバルなポップカルチャーなのだろう。彼らのルーツ(イスラムやアフリカ)から来るものでもない、彼らのホスト国、フランスの伝統でもない、彼らの第3の文化的な選択だ。

「水曜日が待ち遠しい」のは、フランスの小学校は水曜日が休みで、その日に日本のアニメが集中して放送されていたからだ。そして、日本のアニメは移民の子供たちとのギスギスした関係の緩衝材になっていた。出身や人種の差異が否応なしに意識される状況で、国営放送で流されていたアニメだけがそれを意識せずに友だちと語り合える話題になった。フランスは昔からのフランス人と移民の人々を都市計画によって融合することには失敗したが、図らずも子供たちのレベルでは、日本のアニメが文化的な差異を問わない関係を作る、第3者的な共有物の役割を果たしていたわけだ。

さらに、著者の遮断機の体験が興味深い。初めて日本に来て、町を歩いていたとき、遮断機の音が耳に飛び込んできて、その瞬間、とても懐かしい感覚に襲われ、頭が混乱したと書いている。フランスに遮断機が存在するわけがなく、それは日本のアニメを通して植えつけられた記憶だった。1980年代にテレビで浴びるようにアニメを見た、いわゆる80年代世代 Generation 80 は、友だちとの会話もアニメが中心で、日常がアニメ化し、アニメを通して世界を見ていたと言っても過言ではなかったようだ。日本で遮断機に反応したことも、特別な体験ではなく、著者の同世代の多くのフランス人が経験しうることだった。

フランスで初めて放映された日本のアニメが「Goldorak=UFOロボ・グレンダイザー」であることは有名だが、SF的な作品は共感も抽象的だった。しかし、日本の日常生活が舞台の作品が入って来るようになって、現代日本の都市風景にだけでなく、制服、部活、先輩など、日本の独特な学校文化にもフランスの子供たちは親しみを感じ、それらはまるで自分自身のリアルな経験のように意識に浸透していった。部活の帰りの夕暮れどきにメランコリックに響く遮断機もその中に含まれていたわけだ。

2001年に松本零士とのコラボで『ディスカバリー』を発表したダフトパンクのふたり(彼らもまた著者と同じく1970年代生まれで、「キャプテン・ハーロック」を見て育ったことが松本とのコラボにつながった)がインタビューで「日本は第二の故郷だ」とまで言っていたが、彼らの発言は決してリップサービスではなく、このような執拗に反復された経験と深い実感に裏打ちされたものだと、個人的にもようやく納得できた。

このアニメ論には、個人的な経験が常に反映されている。フランスの日本のアニメ受容という大きな文脈も必要だが、そこにある個人的な側面を捨てないで、むしろ強調しようというのが、著者の方針だ。その視点を捨てないことは、文化を受容することの本質をあぶりだすことにもなるからだ。それは、個人と社会のあいだに生まれる揺らぎと想像力、識別が難しい微妙なあり方や可能性を丁寧に描き出すことによってしか得られないのだから。


cyberbloom


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2020年11月14日

Oh Mon Johnny…! 門外漢から見たジョニー・アリディの「謎」

初めてジョニー・アリディと接したのは、主演俳優として出演していた香港ノワール、ジョニー・トーの『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』でだった。シルヴィ・ヴァルタンの元夫で、フランスのエルヴィスと呼ばれているらしい。まず目を奪われたのはその風貌だ。手を入れすぎた果てとでも言おうか。洒脱でスムースなフランス美男とはほど遠い。が、この映画にはしっくりきた。言葉の通じない異国で右往左往しつつ復讐を遂げる、記憶障害を患う初老の元殺し屋のフラジャイルな不器用さを体現し、映画に深みを与えていた。トー監督はアラン・ドロンを念頭に映画を企画したらしいが、アリディをキャスティングして大正解だった。いい役者だという印象を胸に映画館を出た後、特に接点はなかった。



が、昇天してからこのかたの大騒ぎである。一体どうなっているのか。遅ればせながらニュースで知ったジョニー・アリディはこういう人だった。1943年生まれの歌手で俳優。本名ジャン−フィリップ・スメット。肺ガンにより74才で死亡。57年にも及ぶ芸能生活の間人気は衰えず、なんのかんのと4世代ものフランス人に愛された唯一のポップスター。スタジアム級の会場を常に満杯にするライブパフォーマーで、187回ものツアー、3,000回を超えるコンサートをこなし、レコード売り上げ総数は1億枚以上!。5度結婚するなど私生活も華やかで、パリマッチ誌の表紙を最も多く飾ったセレブ。その死を伝えるため妻が深夜2時にマクロン大統領に電話をしても許される特別な存在。

なるほど、確かにビッグな人だったのだ。しかしなぜこれほどまでにフランスが身も世もなく嘆き悲しむのかわからない。外国メディアも困惑しているようで、この驚くべき状況を何とか説明しようとしているのでまとめてみた。

どうしてジョニー・アリディはこんなにフランス人に愛されているのか?それは…

(1) 60年代に登場した、アメリカ文化を素直に享受する若い世代を代表するアイコンだったから。
エルヴィス・プレスリーに衝撃を受け、アメリカ風の名前ジョニー・アリディ(いとこの夫のアメリカ人の名前Hallidayを間違えて拝借した)を名乗ってデビューした1960年代。それは高度経済成長で暮らしが上向き続ける中、第二次世界大戦も戦前のフランスすらも知らずアメリカ文化を浴びて成長した若者たち、「黄金の30年間」の世代が台頭してきた時期だった。15才で「ELLE」誌のカバーを飾ったブリジット・バルドーしかり、17才でいきなり国際ベストセラー作家となったフランソワーズ・サガンしかり。メイド・イン・アメリカを抵抗なく楽しみ伝統を顧みないこうした軽佻浮薄な若者たちとそんな若者たちを苦々しく思う古い世代の大人達との軋轢の狭間に、金髪のリーゼントヘアでアメリカ丸出しの歌を腰振って歌うジョニーはいた。旧世代最大のアイコンであるド・ゴールからは目の敵にされ、大人達の偏見のせいでたくさん理不尽な目にあった(フランス全土のナイトクラブはジョニーを出入り禁止にした)。

でも、ジョニーはめげるどころかスターダムにとどまり続け、最後まで「やんちゃなレベル」の空気を漂わせ続けた。あの頃を体現する「我らのジョニー」として、アリディは同世代のフランス人の側にいた。

(2) アメリカ・イギリスのポップ・ミュージックを持ち込み、フランス化させた「功労者」だったから。
1960年代のどの国の若者もしていたように、ジョニーもどしどしアメリカ、イギリスのポップ・ミュージックを持ち込んだ―それもかなり身も蓋もないやりかたで。当時の日本のカバーソングが多少なりともオリジナルに敬意を払い、苦心して歌詞を日本語に落とし込んでみせたりしていたのに、ジョニーの場合はアレンジも含め丸々コピー。フランス語の歌詞すらオリジナルと無関係なんてことも少なくなかった。アメリカやイギリスのヒットチャートにいい曲が登場すれば、数週間でジョニー版をフランスでリリース、ヒットさせるという状況がしばらく続いた。オリジナルの存在を知っていた人は少数派に過ぎず、多くはそれらをジョニーの歌として受け止めた。

そっくり直輸入した新鮮なサウンドに俺流のホットなフィーリングをこめてフランス語で歌いあげるジョニーを通じて、フランスの若者たちは自分たちにとってしっくりする音楽を選択し、シャンソンとはまた違うフランス独自の大衆音楽を育てていった。

カバーソング量産を卒業しオリジナルソングを歌うようになってからもアメリカ・イギリスの音の動向を意識し続けたが、フランスの作詞家、コンポーザーの手による楽曲はフランスの聴衆に向き合ったものとなり、ジョニーはフランスの歌手としてゆるぎない地位を築いてゆく。

(3) 真のワーキングクラス・ヒーローだったから。
飲んだくれの軽業師であるベルギー人の父と、ランバンなどの高級ドレスメーカーでのモデル仕事にかまけてばかりの母に赤ん坊のころ「捨てられた」ジョニーは、父の姉である叔母に育てられた。キャバレーの舞台に立ってパンをを稼いでいた叔母の一家とともに、フランス国内外を転々とする。叔母はジョニーを学校に行かせたがらなかった。夫が対独協力者だったことが知れたらジョニーが報復されると信じていたからだ。

親もおカネもコネもなくまともに勉強もしていないジョニーは、芸能界に飛び込むことで成功し、エリート中のエリートの証であるレジオン・ドヌール勲章も手にした。お友達だったシラク大統領の力によるところもあるのかもしれないが、何のかんのいって階級社会であるフランスでは、大変なことだ。

成功の影にはジョニーの強いショーマンシップとファンへの献身があった。

「今日のコンサートはよかった」と言われるのが最高の褒め言葉と言い切るジョニーは、ファンを楽しませるために何でもやった。視覚効果満載のコンサートの演出はその最たるものだろう。上空高くホバリングするヘリコプターからステージへ降りてくるなんてスタントまがいのこともやってのけた。

何でそこまでやる?ジョニー本人が自分のスターとしての魅力をわかっていなかったからではないかという意見がある。お手本であるプレスリーはファンへアピールする方法をよく知っていて、自分の見せ方も心得ていたと。何がよくてファンが自分をこんなに求めてくれているのかわからない―だからとにかく常にベストを尽くすしかない。こうした気構えがパフォーマンスの熱量を上げ続け、ファンを喜ばせ続けたのかもしれない。

(4) 昔からずーっと変わらない「いい奴」だったから。
60年近くスターであり続けたにも関わらず、一貫して飾らない、素直な人であったようだ。若い頃ろくすっぽ税金を払っていなかったせいで、25年間、57才になるまでフランス政府への「借金」返済に追いまくられた、という信じ難い逸話の持ち主だ。計算高さとは無縁だったらしい。

フランスを代表するアイコンであるにも関わらず、晩年の自宅はアメリカ、ハリウッドにあった(お隣はトム・ハンクス)。顔さすことなくエルヴィス好きなおじさんとしてハーレー・ダヴィッドソンを自由に乗り回すことができ、快適な日々だったらしい。

音楽的に全く認知されていないイギリスで、あのロイヤル・アルバートホールでコンサートを開くという無謀なことも、やりたいからやってしまう(ドーバーを超えて詰めかけたファンのおかげでソールドアウトだったが。)

「エルヴィスのことは大好きだけど、晩年のあんなにでっぷりした姿を見るとやっぱり運動しなきゃなと思うよ、食べものにも気をつけて…。」なんてぽろっとこぼしてしまう。これがロックの人の発言だろうか!それがジョニーなのだ。

(5) 自分の弱さを隠さない人だったから。
ジョニーは一度自殺未遂騒ぎを起こしている。シルヴィ・ヴァルタンとの間に初めての子供が生まれたころだ。両親から捨てられたという事実は彼につきまとい、影を落とし続けた。ひどい気分の落ち込みを振り払うために酒やコカインにたよらざるをえないときもあった。そうしたカッコよくない自分も世間にさらし、時にはル・モンド紙のインタビューでオープンに語ったのがジョニーだった。

以上、書き連ねてみたが、フランスが寄せるジョニーへの想いはどれも説明できていないように思う。こうした要素が渾然一体となり、一人一人の持つ思い入れがさらに重なって、あの現象は起こったのかもしれない。謎は謎のままにしておいたほうがよさそうだ。

個人的には、バラード歌いとしてのジョニーにフランスを強く感じる。ロック風味ではあるものの、フランスのオーソドックスな歌手が表現してきた泣かせどころ、せつなさがたっぷりある。ここがフランス人の琴線に触れたのではないだろうか。フィガロ紙がジョニーの歌をプルーストのマドレーヌに喩えていた。果たしてそうなのかはわかりようがないが、少なくとも彼の歌はフランスの人々が安心して戻って来れる場所になっていたのかもしれない。


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2020年11月08日

20年後のLove letter 〜アレクサンドル・タローのバルバラへのトリビュート盤

トリビュートと銘打ったアルバムが苦手だ。敬意をこめてとうたっているが参加者のためのにわか仕立てのお祭り的にぎやかさが漂い、「彼の人」の作品は派手な衣装とメイクで別物に変身。素顔の方がよかったのに。が、クラシックピアニストのアレクサンドル・タロー(Alexandre Tharaud)がこの秋リリースしたトリビュート盤は、そんな偏見をあっさり突き崩してくれた。なにせ20年の歳月を経て、とうとう形になったアルバムなのだ。



1997年の晩秋。孤高の自作自演の歌手バルバラの死から3日後。墓の前につどったたくさんのファンのなかに、コンサート・レコーディングピアニストとしてキャリアをスタートさせていたタローはいた。どこかで誰かがバルバラの歌を口ずさみ、声が重なり、自然発生的な合唱になった。雑多な声が入り交じり、時に音程があやしくなったりする歌声は、途切れなかった。みんなやめたくなかったのだ。そして彼は思ったのだそうだ。バルバラは生きている、彼女の歌を歌う私たちの声の中に。いつかきっと、バルバラのためのアルバムを作ろう。

時間がかかったのは無理もないこと。そもそも、お固いクラシック部門のレコード会社の人間が、所属する若手アーティストからの「ジャンル違いのアーティストに捧げるアルバムを作りたい」というリクエストにすんなり耳を傾けるだろうか?今でこそジャズやポップスとの本気なクロスオーバーが賞賛されるようになったけれども、20年前なら全く相手にしてもらえなかったのではないか。また、バルバラがあの声、あのテンションで残したレコーディングの完成度が高すぎて、一部の大ヒット曲を除いてはカバー曲を録音することすらおいそれとしにくい状況があった。しかしあれからもう20年。違った視点で歌いなおし、新たな色を加えることが必要だ―メジャーレーベルで何枚ものアルバムを発表し、コンサートピアニストとして世界を旅する立場となったタローは、夢の実現に乗り出した。

レコーディングにあたり、タローは曲によってアプローチを変えている。シンガーを招き、新たに歌いなおす。役者に歌詞を朗読してもらう。そして、歌詞抜き、音楽のみで表現する。ほとんど全曲を自らが手がけた編曲は、びっくりするほど地味だ。電気系の楽器は極力はずし、ほぼアコースティックな楽器のみの編成。バルバラと一緒に長く仕事をした「身内」のミュージシャンにも参加してもらい、バルバラが気に入っていた音空間をつくることをまず目指した。スコア的にも冒険はしない。音数を押さえ、とにかく歌が際立つようにしている。

新しい視点と色を加えることを任されたのは、慎重にセレクトされたと思われるシンガー達だ。特に印象的なのが、20年の時が経つうちに登場した、様々なバックグラウンドを持つユニークな声。マリ出身のロキア・トラオレ、ベルベル人のインディ・ザーラ、アルジェリア系のカメリア・ジョルダナ(タレント発掘番組ヌーヴェル・スター出身)、インディ・ロックトリオのレディオ・エルヴィス(オリジナルが秘めていたビートを強調し疾走感溢れるバルバラを実現)。最年少の参加者、若干22才のティム・ダップには思い切ってバルバラの代表曲を歌わせている。どれもバルバラから離れがたく結びついているように思われた歌達が、シンガーの個性と歌心によってふわりと浮かび上がり、思いがけないきらめきを見せる。肩肘はらずリラックスして聴けてしまうのはこの試みが上手くいった証拠だろう。

20年前はまだ歌わせてもらいにくかった人たちも参加している。ロリータというあだ名がまだくっついていたジェーン・バーキン。ジョニー・デップだけのベイビーであることに忙しかったヴァネッサ・パラディ。二人とも気負うことなく自然体で歌に取り組み、オリジナルとはまた違う景色を見せてくれる。

朗読の試みも上手くいった。歌詞の素晴らしさでも知られているバルバラだが、タローは多くの人のフェイバリット・ソングである「ウィーン」を敢えてジュリエット・ビノシュに朗読させた。ウィーンから恋人へ綴る手紙の形式をとる詞だけに、演じられる言葉の息づかいがとてもリアルで迫るものがある。メロディに支えられなくとも成立するバルバラの世界をタローは見せたかったのかもしれない。

そして、インストゥルメンタル。バルバラといえばあれ、と名前があがる歌をあえてノー・ヴォーカルとする選択をしたタローは、ピアニストとしてできる全てを使ってバルバラの作った音楽を奏でている。多くがクラリネットやアコーディオンに主旋律を任せたアンサンブルで彼の参加は歌伴的なものになるのだけれど、一音一音がとても美しい。これしかないという気迫で自在に鳴らされる迷いのない音色を聞くと、ピアニストとして歩んできた彼自身の20年の重みを思わずにはいられない。奥底にずっと沈めていた想いを解き放ったかのように、彼はピアノで歌っている。待った甲斐があったのではないか。このアルバムは、20年の時を経てようやく書き上げることができたLove Letterなのかもしれない。

収録曲のうちYoutubeで聴けるもので、とりわけ印象深い2曲を選んでみた。一つはバルバラが亡くなったときはまだ子供だった世代のシンガー、カメリア・ジョルダナの歌うお別れの歌、「9月」。ジャズっぽい歌にぴったりはまるビロードのハスキーヴォイスが耳元で囁く甘い吐息のように歌うこの曲は、びっくりするほどかわいらしくてセクシーだ。音数を絞ったタローのピアノとしっくりと絡み合い、インティメイトな温もりが心地よい。こういうバルバラは想像できなかった。



ヴァネッサ・パラディがバルバラを歌えるのか、あの声はチャーミングだけれどミスマッチではないのかと正直不安だったのだけれど、彼女の自然にロックする感性が歌のほこりを払い、蘇らせてくれた。こんなに鮮やかに展開するメロディでしたが、と、どきどきしてしまう。もっといろいろな人に歌われるべき。シャンソンの中に閉じ込めておいてはもったいない。メロディメイカー、バルバラを改めて意識した。




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